「蛾は火に向かって飛ぶ、思慮もなく、知ることもなく」
熱譫妄の合間、冬雅(とうが)の母はふと我に返ったような声でつぶやいたという。つきそっていた彼女の夫は意味を問うたが、答えはなかった。
それから3日後、搬送された病院で彼女は息を引き取った。言葉の意味は最後まで誰にもわからなかった。
――母さんの全ては俺の全て、であって欲しかったのに、なんで最期に
遺影を抱えながら冬雅はそんなことをぼんやりと思って、それを思い出すたびに泣いた。
それから一年が経ち、社会人1年目の慌ただしさに紛れてようやく涙が枯れてきたころ、父が失踪した。父の勤め先の人々や近隣の人々の言うところによれば、母が死んでからずっと不安定な様子で、深夜に何事か呟きながら徘徊する、会議中に理由のわからない発言をする、突然泣きわめいてオフィスのあるビルから飛び降りようとする、などの異常な行動をしていたらしい。
捜索願を出すことを決めた日、冬雅はようやく実家にある父の書斎を検めてみる気になった――幼い頃、書斎に入って、烈火のごとく怒った父に折檻されたことが記憶の底にあり、年を経た今でもなかなか入る気になれなかったのだ。
父の書斎は記憶にあるとおり、無駄な調度品などはなく、書棚の本からデスクのペン立てに至るまで「乱れている」ところが少しもない。ただ、異常な行動がみられた人間の部屋、としては奇妙な気もした。
デスクの下に収められていたキャビネットの上には、手帳が一冊置かれていた。その手帳を目にした時、これは父のものではない、と直感的に冬雅は思った。
手擦れのした赤い革の手帳は、たくさん切り貼りされているらしく分厚く歪んで膨らみ、異形の果実か内臓のようにも見える。潔癖で几帳面な父が目にしたら眉をひそめそうな代物だ。
冬雅は恐る恐る手帳を手にした。見た目よりも重く、革表紙の指に吸い付いてくるような柔らかさが、どこか生き物じみていて不気味だ。
表紙を開くと、見覚えのある丸みを帯びた文字が目に飛び込んできた。
――母さんの字……?
ようやく和らいだはずの悲しさがどっと蘇り、涙が溢れそうになる。
内気でこもりがちだった自分の唯一の理解者で、親友で、不在がちな父にかわってあらゆることを助けてくれた母。一緒に出かけた折などに、傍らの冬雅を夫か恋人かと勘違いされるたび、無邪気に笑っていた母。学生から社会人になり、会社の都合で離れて暮らし始めてからは少し距離が離れたが、それでも根底の気持ちは変わらなかった。少なくとも冬雅は。
母の字は、一つの単語をびっしりと書き連ねていた。
――Z、a、r、y、a、r、g、a、n……?
何か、あるいは誰かの名前だろうか。少なくとも知っている言葉ではない。無数の文字が刻み込まれて黒ずんだそのページはゆがんでいて、文字を通して母の魂が立ち上ってくるようだ。
その禍々しさと、自分が知らない母の一面を見せつけられた口惜しさとが襲ってきて冬雅は手帳を取り落とした。
足元に落ちた手帳は、表紙と同じ赤色の栞紐を挟んだページで開いた。写真が数枚貼られている。
それも、冬雅が知る何かの写真ではなかった。
写っていたのは若い男だった。少し型崩れした古いソファに身を預けて、どこか茫洋とした眼差しでこちらを見ている。濃い栗色の長い髪は日差しを受けて仄かに赤く輝き、透き通るような乳白の肌とのコントラストが目を焼く。ゆったりした白いシャツからのぞく首筋や肩の線、肘掛けに伸びた腕や手の鋭い線から男だと思ったが、優しげに整った顔だけ見ると凛々しい顔つきの少女のようにも思える。性別を持たない人形か天使のようだ。
震える手で手帳を拾い上げ、夢中でページを捲る。どのページにもその男の写真がベタベタと貼られ、隙間に赤やピンクの丸文字で「だいすき」とか「あいしてる」「かわいい、ほしい」などと書き込まれている。ページが進むにつれ、男の表情はいっそう媚を含んだ優しげな、というか「 甘い」表情に変わり、書き込みは短い日記のようなものに変わった。
「3/17:きょうも/いっぱいわらってくれた/いっぱいきすした/だいすきだよ」
「5/4:もっと/もっともっと/ふれて/ほしいの/あなたの手/おひさまみたいで/すき」
「7/7:たなばた/教えてあげた/あたしたちにてる、って/思ってないちゃった」
という具合だ。
後半のページはどうやら「最中」か「事後」の写真ばかりだった。それも、男の方が組み敷かれて悶えている様子のものばかりである。両腕を革の拘束具で固定され猿轡を噛まされて、グロテスクな性具で責められている写真は特に気に入ったのか何カットもあった。
無垢で無邪気で愛らしかった母がこんな趣味を持っていたとは……と、愕然としつつ一番最後のページを開く。
乱れたシーツの上で眠っている男の上半身を写した写真があった。しどけなく投げ出された両腕の内側や首元には無数の痣や噛み跡がつけられ、そこに栗色の髪がもつれて広がっている。薄く開いた唇とその周りには口紅がこびりつき、安らか、というよりは、恍惚とした寝顔だ。
書き込みがある。
「5/23、キスの日だからいっぱいした!あんあんニャアニャアいってすごいかわいかった、ざりゃ。ヤダって言ってたけど写真いっぱいとっちゃった/ゴメンね、でも保存しときたかったから……/ねえ、おくちのひみつは/ふたりだけ/のひみつだからね/ずっとずっとあいちてる」
食い入るように読んだその書き込みの中に引っかかる部分があった。「ざりゃ」という言葉だ。最初のページを見返してみる。
――Zaryargan……ザリャルガン?……こいつの名前か?
見知らぬ男、は名前を与えられたことによって、不意に現実感を持って内心で像を結んだかのように思えた。
この手帳、この男を、母の遺品から見つけた父も同じように衝撃を受けたのだろうか。と冬雅は思った。今更わかった妻の不貞に怒り、混乱し、病んでいった――そうであっても不思議はない。あるいは、母のメモにある「ふたりだけのひみつ」を探ろうとこの写真の男の元へ向い、何か悪いことが起こったのかも知れない。
しかし、警察にこの母の痴態がつまった手帳を渡すのには抵抗があった。
熱譫妄の合間、冬雅(とうが)の母はふと我に返ったような声でつぶやいたという。つきそっていた彼女の夫は意味を問うたが、答えはなかった。
それから3日後、搬送された病院で彼女は息を引き取った。言葉の意味は最後まで誰にもわからなかった。
――母さんの全ては俺の全て、であって欲しかったのに、なんで最期に
遺影を抱えながら冬雅はそんなことをぼんやりと思って、それを思い出すたびに泣いた。
それから一年が経ち、社会人1年目の慌ただしさに紛れてようやく涙が枯れてきたころ、父が失踪した。父の勤め先の人々や近隣の人々の言うところによれば、母が死んでからずっと不安定な様子で、深夜に何事か呟きながら徘徊する、会議中に理由のわからない発言をする、突然泣きわめいてオフィスのあるビルから飛び降りようとする、などの異常な行動をしていたらしい。
捜索願を出すことを決めた日、冬雅はようやく実家にある父の書斎を検めてみる気になった――幼い頃、書斎に入って、烈火のごとく怒った父に折檻されたことが記憶の底にあり、年を経た今でもなかなか入る気になれなかったのだ。
父の書斎は記憶にあるとおり、無駄な調度品などはなく、書棚の本からデスクのペン立てに至るまで「乱れている」ところが少しもない。ただ、異常な行動がみられた人間の部屋、としては奇妙な気もした。
デスクの下に収められていたキャビネットの上には、手帳が一冊置かれていた。その手帳を目にした時、これは父のものではない、と直感的に冬雅は思った。
手擦れのした赤い革の手帳は、たくさん切り貼りされているらしく分厚く歪んで膨らみ、異形の果実か内臓のようにも見える。潔癖で几帳面な父が目にしたら眉をひそめそうな代物だ。
冬雅は恐る恐る手帳を手にした。見た目よりも重く、革表紙の指に吸い付いてくるような柔らかさが、どこか生き物じみていて不気味だ。
表紙を開くと、見覚えのある丸みを帯びた文字が目に飛び込んできた。
――母さんの字……?
ようやく和らいだはずの悲しさがどっと蘇り、涙が溢れそうになる。
内気でこもりがちだった自分の唯一の理解者で、親友で、不在がちな父にかわってあらゆることを助けてくれた母。一緒に出かけた折などに、傍らの冬雅を夫か恋人かと勘違いされるたび、無邪気に笑っていた母。学生から社会人になり、会社の都合で離れて暮らし始めてからは少し距離が離れたが、それでも根底の気持ちは変わらなかった。少なくとも冬雅は。
母の字は、一つの単語をびっしりと書き連ねていた。
――Z、a、r、y、a、r、g、a、n……?
何か、あるいは誰かの名前だろうか。少なくとも知っている言葉ではない。無数の文字が刻み込まれて黒ずんだそのページはゆがんでいて、文字を通して母の魂が立ち上ってくるようだ。
その禍々しさと、自分が知らない母の一面を見せつけられた口惜しさとが襲ってきて冬雅は手帳を取り落とした。
足元に落ちた手帳は、表紙と同じ赤色の栞紐を挟んだページで開いた。写真が数枚貼られている。
それも、冬雅が知る何かの写真ではなかった。
写っていたのは若い男だった。少し型崩れした古いソファに身を預けて、どこか茫洋とした眼差しでこちらを見ている。濃い栗色の長い髪は日差しを受けて仄かに赤く輝き、透き通るような乳白の肌とのコントラストが目を焼く。ゆったりした白いシャツからのぞく首筋や肩の線、肘掛けに伸びた腕や手の鋭い線から男だと思ったが、優しげに整った顔だけ見ると凛々しい顔つきの少女のようにも思える。性別を持たない人形か天使のようだ。
震える手で手帳を拾い上げ、夢中でページを捲る。どのページにもその男の写真がベタベタと貼られ、隙間に赤やピンクの丸文字で「だいすき」とか「あいしてる」「かわいい、ほしい」などと書き込まれている。ページが進むにつれ、男の表情はいっそう媚を含んだ優しげな、というか「 甘い」表情に変わり、書き込みは短い日記のようなものに変わった。
「3/17:きょうも/いっぱいわらってくれた/いっぱいきすした/だいすきだよ」
「5/4:もっと/もっともっと/ふれて/ほしいの/あなたの手/おひさまみたいで/すき」
「7/7:たなばた/教えてあげた/あたしたちにてる、って/思ってないちゃった」
という具合だ。
後半のページはどうやら「最中」か「事後」の写真ばかりだった。それも、男の方が組み敷かれて悶えている様子のものばかりである。両腕を革の拘束具で固定され猿轡を噛まされて、グロテスクな性具で責められている写真は特に気に入ったのか何カットもあった。
無垢で無邪気で愛らしかった母がこんな趣味を持っていたとは……と、愕然としつつ一番最後のページを開く。
乱れたシーツの上で眠っている男の上半身を写した写真があった。しどけなく投げ出された両腕の内側や首元には無数の痣や噛み跡がつけられ、そこに栗色の髪がもつれて広がっている。薄く開いた唇とその周りには口紅がこびりつき、安らか、というよりは、恍惚とした寝顔だ。
書き込みがある。
「5/23、キスの日だからいっぱいした!あんあんニャアニャアいってすごいかわいかった、ざりゃ。ヤダって言ってたけど写真いっぱいとっちゃった/ゴメンね、でも保存しときたかったから……/ねえ、おくちのひみつは/ふたりだけ/のひみつだからね/ずっとずっとあいちてる」
食い入るように読んだその書き込みの中に引っかかる部分があった。「ざりゃ」という言葉だ。最初のページを見返してみる。
――Zaryargan……ザリャルガン?……こいつの名前か?
見知らぬ男、は名前を与えられたことによって、不意に現実感を持って内心で像を結んだかのように思えた。
この手帳、この男を、母の遺品から見つけた父も同じように衝撃を受けたのだろうか。と冬雅は思った。今更わかった妻の不貞に怒り、混乱し、病んでいった――そうであっても不思議はない。あるいは、母のメモにある「ふたりだけのひみつ」を探ろうとこの写真の男の元へ向い、何か悪いことが起こったのかも知れない。
しかし、警察にこの母の痴態がつまった手帳を渡すのには抵抗があった。