3.古書ヤガ



2025-04-29 22:47:17
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探したその店は、商店と住宅が入り混じる駅前通りの路地に在った。
 立っているだけで生きとし生けるものたちの生気が押し寄せてくるような湿った空気と、何もかも漂白してしまう眩く初夏の日差しを避け、路地の黴臭いかげりでうずくまり眠っている。そんな感じの店だ。クリーム色の外壁はどこかくたびれた様子で所々ヒビが入り、通りに面した格子窓は乳白と赤の色ガラスがはめ込まれていて中が見えない。格子窓の上にはショップカードと同じ書体の赤い文字で「古書ヤガ」と書かれた看板がある。「Доми Тенай(影の家)」という言葉が記されたガラスが嵌め込まれた入口には、褪せた緑色の「OPEN」の札がかけてあった。
 ついにたどり着いたという達成感と共に、足を踏み入れることへの恐怖が押し寄せ呼吸が早くなる。5分ほど逡巡し、冬雅はようやくドアを開けた。
 店内は薄暗く、入口付近にランプや食器や小さな看板、人形や時計やアクセサリーなどが飾られた棚がある以外は、全て本が詰まった棚だ。棚に入り切らずに積み上げられているところもあり、通路は半ば塞がっている。
 冬雅は目を凝らして並んでいる背表紙を見た。色褪せたものもあれば、比較的きれいな状態のものもあるが、書かれている文字がどこの国の言葉なのかはわからない。なんとなく漢字やひらがなのように見える文字もあるのだが、手にとって見ると何が書いてあるのかわからなくなってしまう。
 何かがおかしい。確かに何かおかしい。
 冬雅は怖気立って本を棚に押し込んだ。かすかに棚が軋み、棚の向こう側から誰かの声が聞こえた気がした。身体が強張る。
 恐る恐る店の奥へ歩を進めると、最奥を照らす白熱灯の黄色い光が目に入った。
「……ミル、モルダヤルタ。何かお探しですか?」
 柔らかく低い声が響く。棚と同じように本や紙の束が積まれたカウンターの向こう側の光の中に、あの男が座っていた。
 冬雅は思わず立ち止まり、まじまじと相手を見た。最初に見た写真と同じ白い服を着て、栗色の髪をゆるく束ねたその男は、頭の中で思い描いていたよりも長身で全体的に鋭い雰囲気があった。まっすぐにこちらを捉えている、少し切れ長な琥珀色の目は狼のようだ。
 ずっとあれこれ言ってやろうと思っていた言葉が、体内を巡っているが出てこようとしない。冬雅は黙ったままじりじりとカウンターに近づいた。
「ええと、あの……人を、探していて」
 おどおどした様子でカウンターの前に立つ冬雅を怪訝そうにこちらを見ていた男の表情に、一瞬何か動揺がはしった気がした。それに押されて冬雅はカバンから例の手帳を取り出しカウンターへ置いた。
「これ、わかりますか?きょ、去年の冬、亡くなった母の遺品なんですが」
 震える手で表紙を開く。
「この字……Z、a、r、y、a、r、g、a、n……あなたの名前ですよね?」
 男は黙ったまま、口元だけで微笑んだ。こちらを見上げる目には鋭さを宿したままだ。その冷静な様子に、手帳を見つけてからずっとくすぶっていた彼への憎しみが燃え上がり、冬雅は、次々にページを開いて写真を男に示してみせた。
「それで、これも、これも、これもこれも全部、あなたですよね?違いますか?」
 ゆっくりと男は視線を手帳に向け、言った。
「……タヴァ。おまえの母が撮ったわたしだ」
 再び鋭い視線が向けられる。
「なんで俺が……息子だってわかる?」
「スノヴィヂェーニヤ、そう、幻を見た。おまえがヌヴェクの淵に立ちわたしを呼んでいる幻」
 わけのわからないことを言って余裕そうでいる男に苛立ち、冬雅はカウンターを殴りつけた。いくつかの紙の束が崩れ落ちる。
「黙れ。おまえが母さんと……こんなことをしたせいで、父さんまでいなくなったんだ!」
 こちらを睨んでいた視線にふと影がよぎる。やはり知っているのか?と思った冬雅は男の襟首を掴み揺さぶった。
「おまえ何か知ってるんだろう?どうなんだよ!」
「知っている。おまえが知らないことまで全部」
 襟首を掴んだ手を、男の熱い手が掴んだ。その熱に冬雅は体の芯が跳ねるような感覚を覚えた。
「知りたいなら教えてやる。痛い思いをするかもしれないが、な。……それでも知りたいか?ミリ デティ」
 呪詛のように低く男は囁いた。間近にある琥珀の目が炎のように妖しく燃えている。全身を奇妙な戦慄がはしる。
「教えろ。知っていることを全部。この……「秘密」もだ」
 襟首を掴んだまま手帳の最後のページを開き、あの稚拙で生々しいメモを示す。男はちらりとそれを見やると、ふいに妖しさも鋭さも消して短く笑った。
「そんなことか。それは……だいぶ些細なことだ」
「お……俺はそれを知りたくて何度もこの手帳を読んだ。何度も何度も、おまえ、が、頭の中でちらつくくらいに、ずっと……」
 手帳を見つけてから今までの、答えがわからない苦しさが、腹の底からせり上がってくる。喉と目の奥から熱いものが込み上げ泣きそうになる。男は呆れたような顔でそれを見ていたが、再び短く笑い、冬雅の手を掴んでいた手を伸ばして頬に触れた。
「ではまずその秘密を教えてあげよう、ミリ デティ」
 頬に触れた手がゆっくりと顎へ滑り、そっと顎を掴んだ。
 抵抗する間もなく、強い指にぐいと顎を引かれ唇を食まれる。
 柔らかく厚い唇が、派手に湿った音を立てて唇を貪ってくる。それだけで背骨が引き抜かれ、全身の力が抜けていくようだ。
 冬雅は思わず、顎を掴んでこじ開けている手を掴んだ。湿り気を帯びた熱い手だ。しなやかな指が顎から頬へ這い上がり、耳朶をくすぐる。蕩けそうな体を戦慄が駆け、思わずうめく。その隙にぬめった熱いものが差し込まれ、口腔を這い回る。
 肉厚で柔らかなものの中心にはなめらかな突起があり、それが歯茎の裏側や上顎を擦り上げると腰のあたりから堪えきれない快感がはしった。
「んぅ……うああ……な、なに……」
 暫ししてゆっくり唇が離れ、仄暗い隙間からのぞく口腔で何かが光っていた。
「おまえが知りたがっていた、秘密だ」
 眼の前に突き出された舌の真ん中には銀色のピアスがあった。そんなことが「秘密」なのかよ、と苛立ちつつ、冬雅は掴んでいる手を離せずにいた。まだ体を甘い戦慄がはしっている。それを見つめながら男は不遜に笑い、荒い息を漏らしている唇を親指で幾度かなぞって呟いた。人とは思えないような暗い響きの低声だった。
「チュミク レティヴ オヘン……ニェ ドゥミャ、ニェ ズナェ」
「……どういう意味だ」
「蛾は火に向かって飛ぶ──思慮もなく、知ることもなく。……おまえのことだ」
 挑戦的な笑みと共に言って、男はもう一度冬雅を引き寄せ唇を絡めた。襟首を掴んでいた手をそっと取られ、肩へ沿わされる。手と同じ熱さが伝わってくる。
――母さんが言ったのは……こいつの言葉……
 這い回る舌とピアスの感触が思考を奪い、快楽で満たそうとしている。湧き上がる震えに体を支えきれなくなり、男の肩へ伸べていた手を背中へ回してなんとか耐えていると、頬に触れていた手がうなじへ滑っていき、柔らかく抱き寄せられた。
 それから暫し、なぜここへ来たのかを忘れてカウンター越しに唇を絡ませ続けた。