7.岐路



2025-05-13 22:10:12
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何かに願ったわけではないが、今日は早く仕事が終わり、定時で帰宅することになった。
 帰り支度を整えながら冬雅はひそかに母の手帳の今日の日付を開いた。何度も見た例のメモと、あの男の写真をもう一度見つめる。
――これから行って、まだ店は開いてるだろうか。
 何気なくそう考えて、耳まで熱くなっているのに気づく。
 周りの視線が気になり、就業時間と共に冬雅はそそくさと職場を後にした。店があるのは帰路の途中だ。誰かに見られたとしてもさして怪しまれることはないだろう……そんなことを考えながら駅を降りた。
 店は駅から少し歩く必要がある。歩きながら、何を言おうか考える――最初はいなくなった父を探すために訪れたのだったが、今はそれ以上に純粋に、あの男……ザリャに会いたくてたまらなかった。母を惑わした存在に自分も惑わされているのか、と思うといささかのためらいも感じたが、幾度となく蘇る唇と舌の感触がそれをかき消してしまうのだった。
 何も思いつかないまま、冬雅は店にたどり着いた。ドアのところに下げてある札は「CLOSE」になっているが、店内はほんのりと明るい。
 どうしたものか、と思って立ち止まり、なんとなく二階を見上げる。黝くなった空を背景にそびえている二階のバルコニーに人影がある。丈の長いガウンのような黒衣をたなびかせ、じっとこちらを見下ろしている。
――ザリャ、
 その名前を思っただけで居ても立ってもいられず、冬雅はドアにすがって幾度か叩いた。暫ししてするりとドアが開き、勢いあまって中になだれるように飛び込む。よろめいた体を大きな手が支える。
「また来たのか?秘密を探しに」
 両腕を支えている手の熱が伝わってくる。その温かさに、ずっと体中で沸いていた感情が蘇ってくる。
「違う、ただ……会いたかった」
「そうか……おまえの母もまったく同じことを言った」
 ザリャはからかうような口調で言った。皮肉な笑みを浮かべている唇に手を伸ばす。ただ触れたくてたまらない。震える手で唇に、頬に触れるが、ザリャは身じろぎもせずただ笑っている。
 次第にその不敵な表情がこちらを試しているかのように思えて、無性に苛立った冬雅は相手の肩を掴むと、自分の体ごとその背後にある本棚の側板にきつく押し付けた。
 ぎしり、と棚が鳴る。
「乱暴だな。そういうところもそっくりだ」
「……黙れ。いま目の前にいるのは「俺」だ」
 一瞬ザリャは皮肉な笑みを消し、じっとこちらを見つめて何か言おうとした。しかし冬雅は何も聞きたくなかった。
 薄く開いた唇にほとんどぶつけるように唇を重ねる。苛立ちにまかせて熱い体を荒々しく愛撫すると、重なった唇の端から甘えたような呻きが漏れた。襟から手をねじ込み、胸の中心に手を押し当ててみると、うっすらと汗で湿った皮膚の下で心臓が激しく脈打っている。その躍動を愛おしく思いつつ、ゆっくりと愛撫し、胸と肋骨のあわいをなぞる。
「おまえは岐路にいる」
 かすかに震える低い声でザリャは囁いた。
「このまま燃え尽きていくか、それとも逃れるのか」
 指先に硬くなった乳首が触れ、きつく摘むと耳朶に乱れた吐息が吹きかかった。そのまま弄びつつ冬雅は嗤った。
「逃げようと思って逃げられると思うか?……きっと無理だ。ずっと……こんなふうにしたかったんだから」
 何か反論しかけたのを封じるように爪を立てる。吐息混じりの呻きと共に、押し当てた腰の下で猛った一物が跳ねる。腰を抱いていた手を太腿から内側へすべらせようとすると、かろうじて腕を掴んでいた手がそれを押し留めた。抗おうとすると、甘く掠れた声で囁かれた。
「ミリ デティ、奥へ行こう……邪魔が入るかもしれない」
 どこか諦めの混じった声は妙に蠱惑的で、冬雅は素直に体を離した。取られた手を引かれ、カウンター奥のバックヤードへ足を踏み入れる。
 湿った紙と埃の匂いが鼻をつく。無機的な白いLEDの光に照らされた、ダンボールや本や得体のしれない雑貨が並ぶ棚が並んだ先に、ようやく二人並んで座れるくらいの古いソファが置かれている。
 とても扇情的とは言えない場所だったが、そんなことはどうでもよかった。手を繋いだままソファにもつれ込み、冬雅は眼前の形のいい鼻筋に、白い頬に、荒い息を漏らしている唇に、ついばむように口づけた。はだけた喉に、鎖骨に、唇を這わせると微かに白い肌が震えた。
「くすぐったいよ、ミリ デティ」
「そのミリ デティ、ってどういう意味なんだ?」
 濡れた厚い唇が優しげな笑みを作り、頬から髪を温かな手がくしゃくしゃと撫でる。
「いとしい、かわいそうな子……夜毎泣きそうな声でわたしを呼ぶ、おまえにふさわしい呼び名だ」
 ふと、眠る前に彼の名前を呼び続けていた、狂おしい夜を思い出して苦しくなる。それを見やったザリャは笑った。
「……ミリ デティ、名を教えてくれ……また呼ばれたら答えてあげる、から」
「冬雅だ。とうが」
 どこか遠くを見るような目をして、告げられた名を一音ずつ確かめるように繰り返す唇にもう一度唇を絡ませる。半眼になった琥珀色の目が、陶然とこちらを見つめている。
 かろうじて纏っていた黒衣を滑り落とし、あらわになった肋のゆるい膨らみを指先でなぞっていく。腰骨を、太腿を撫で、ひくついている怒張したものをゆっくりと扱くと、切なげな呻きが唇からこぼれて締まった脚が絡みついてくる。
「うあああ……と……が……とうが、あっあっ……」
 こんなふうに誰かと触れ合うのは久しぶりだった。まして男を抱くのは初めてだが、不思議と違和感も嫌悪感もなかった。ただ、ひどく焦がれた相手が腕の中に居て、愛おしげに自分を呼び、激しく求めていることにくるめくような陶酔を覚えた。
 
遠く消防車のサイレンが聞こえる。
 幾度も達して、すっかり弛緩した熱い体を抱きながら、冬雅は燃え盛る火の柱と、その熱と光に抗う事もできず、羽を焼きながら舞う蛾の姿を思い描いた。



後始末もそこそこに冬雅は明け方近くに帰ったらしい。
 雑に拭かれた体に被せられた黒衣にくるまって、ザリャは汚れたソファで身を丸めた。貫かれた熱と疼きが残ったまま朝まで眠りたかった。
――これは呪いのゆえなのか、それともおまえ自身の意思か?……とうが……
 目の前にいるのは俺だ、と彼が言った時の射るような目を思い出す。
 己の情欲に溺れ、陶然とこちらを見ていた母親のそれとも、父親の粘りつくような暗い目とも違う強いまなざし。
 それを思い出した時、ザリャはずっと自分に注がれていたあの視線が消えていることに気づいた。