10.新しい街



2025-05-17 12:30:19
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築年数は古かったが、新居はやはり新居の匂いがした。
 少ない荷物を片付けて窓を開けると、青々とした木々が茂るおだやかな住宅地が広がり、その先に霞んだ海がうっすらと見える。吹き込んでくる温かな風にも、どこか海の近さを感じる。

 半年ほどの休職期間を経て復帰してみると、今まで自分が担っていた仕事は他の人が担当するようになっており、冬雅は本社から地方の支社へ異動することになった。
 休職明けなのに大きく環境を変えるようなことをして大丈夫なのかと心配もされたが、母が熱に苦しんで死に、さらに父が失踪のすえに焼死した、禍々しい記憶がしみついた街から新しい場所へと出ていけるのは喜ばしかった。

引っ越して最初の休日は良い天気だった。前日までの温い春雨はすっかりやんで、湿った大気が日差しに光っているような感じがした。
 引っ越しに伴う手続きは終わっていて何も予定はない。冬雅は町を散策してみることにした。
 出かける前、町の情報を調べようとしたが、あえて何も調べずに気ままに歩いてみようと思った。行き当たりばったり歩いて気になった場所を覚えておいて、後から調べて見れば良い。

とりあえず海が見えた方向へひたすら歩いた。
 ところどころ古い家並みの残る閑静な住宅地の、さして広くない道を歩く人の数は思ったよりも多かった。休日だからなのかと思いつつ歩いていくと次第に人が増えていく。
 住宅地を抜けると広い幹線道路へ出た。道の向こう側には緑地公園が広がり、カラフルなテントやパラソルらしきものが並んでいる。何やらイベントをやっているようだ。その向こうで、濃紺のリボンのような海がきらめいている。
 普段なら、人混みやにぎやかなイベントは苦手で避けようと思うのだが、新天地を歩いて冒険気分を味わっているからか何となく行ってみようと思った。
 人の流れに沿って道を渡り、ゆるやかな丘を登っていく。大小さまざまなテントやパラソルの元でアンティークな雑貨や本、古着などが売買されている。フリーマーケット、というか骨董市だろうか。
 持ち合わせが乏しいことを少し後悔しつつ、冬雅はそれぞれの店を覗きながら気ままに歩いた。せっかくの新居に、何か新しく気に入ったものを飾ってみるのも良いかも知れない。
 外国のものらしい、古い本が詰まった箱が並ぶパラソルの下で冬雅は足を止めた。微かに湿った紙の匂いが立ち上ってくる。
 褪せた金色の文字が刻印された背表紙を眺めていると、なんとなく心の底がざわつくような気がした。
 ふと目についた本に手を伸ばした時、横から誰かの手が伸び、一瞬重なった。
 触れただけ、と思えないほど、その熱が手から腕へ、肩へ、胸へ、全身へ広がる。体の芯がずきり、と痛む。
――なんて、熱い手だ
 すいません、と呟きつつ傍らを見上げる。
 隣にいたのは黒縁の丸眼鏡をかけた青年だった。パラソルの外から差してくる日差しを映してレンズが白っぽく光っている。その向こうの、大きく見開かれた目は鮮やかな金色をしている。
――火のような……
 脳裏でいくつもの光景が閃くのが分かる。
 しかし、すべて紗がかかってどんな情景なのかはっきりしない。
 ただ、身を焦がすような感覚だけが切なく蘇ってくる。
 冬雅は震え、浅く息を吐きながら涙ぐんだ。青年は驚いた様子でそれを見ていたが、柔らかく微笑んで言った。
「……ミル、モルダヤルタ。何かお探しですか?」