1.陽太



2025-07-25 17:46:54
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陽太(はるた)はたそがれの波打ち際を走っていた。
 最初は、中1のころから高3の今まで続けている、陸上部の練習の延長としてはじめたことだった。今は温かな潮風と、夕暮れの金色の光の中を走ることそのもの、が楽しかった。

その日、陽太はいつもより長く走った。
――そういえば誰かが、今の時期は1年で一番昼間が長いって言ってたな
 そんなことを考えつつ、普段は行かない岩場へたどりついた。そろそろ帰ろうか、とゆっくりとスピードを落とす。まだ明るくはあるが日は落ちつつあり、潮が満ちはじめている。
 息を整えながら、燃え立つようなえんじ色に染まった空と、それを映して同じように燃えている海を陽太はぼんやりと眺めた。
 日頃、あまり感傷的になるタイプではないが、こんなにも鮮やかな夕暮れを見ていると胸のうちがざわつき涙が出そうになる。
――ひとりで見てるのが惜しいな……
ふとそう思った時、不意に強い風が吹き渡った。羽ばたきのような音をたて、紙の束が降ってくる。陽太はとっさにそれを払い除け、足元に落ちた一枚を拾い上げた。

コピー用紙に鉛筆で走書きのように描かれていたのは、目の前に広がる空と海だった。簡素でありながら正確な線で捉えられた光景の最中を、流線型をした鳥らしきものが横切っている。
 迷いのない筆致で描かれたそれは、絵の中から自由に飛んでいくような躍動感があった。
 陽太は思わずそのスケッチを水平線の方へ掲げた。
 手の中で羽ばたいた白い鳥が彼方へ飛び去っていく。
 そんなイメージが頭の中で閃き、喉元でつかえていたざわつきがどっと溢れ出す。
 涙がこぼれる。
「……すいません」
 背後から嗄れた低い声が聞こえ、掲げていたスケッチを奪い取られる。陽太ははっとして振り返った。
 背後に立っていたのは、自分と同じか、少し年上の青年だった。長袖のダボッとしたパーカーを着て、フードを目深に被っている。フードの縁からはみ出した、ツヤのないぼさぼさした黒髪に縁取られた顔は青白く、およそ海辺という場にそぐわない感じだ。長い前髪の間からのぞく、暗くて大きな目は訝しげに細められている。
「だ、大丈夫。少し目に砂が入って。……今の風で」
 あわてて涙をぬぐうと、青年は薄い唇に微かな笑みを浮かべた。何もかも見透かすような冷たい笑みに陽太は背中が寒くなるのを感じたが、それを跳ね返すように言葉を投げた。
「それ、あなたが描いたんですよね。すごいな」
「……すごいか?」
 冷笑を浮かべたまま、彼は低く言った。
「こんなもの、ただのラクガキだよ」
 手にしたスケッチを握りつぶそうとするのを、陽太は無理やり奪い取った。
「あなたが要らないんならオレがもらいます。この、海と空と……鳥の、線。すごい好きだから」
 咄嗟に出た言葉だったが、嘘ではなかった。絵を一目見て涙するほど心を揺さぶられたのは初めての体験だった。
 再び強い風が海から吹き渡り、青年のかぶったフードが外れて前髪がかき上げられる。
 先ほどまでの冷たい笑みは消え、どこか思い詰めたような表情をしている。冷ややかに整った薄い唇や鼻筋と裏腹に、丸く大きな目が夕映えを映して潤んで見える。
 陽太は思わず彼の双眸に魅入った。この目が海を、空をとらえるとあんな線を生み出すのか、と内心で嘆息した。
 曖昧にこちらを見ていた大きな目がじっとこちらを見据え、幾度かおののくように瞬き、つと伏せられる。
「おまえ、変なやつだな」
 青年はフードをかぶり直した。突然自分と自分の絵に対して熱い感情をぶつけられ、戸惑っているように見えた。陽太は明るく笑った。
「オレ、絵とかゲイジュツとかよくわかんないんですけど、直感でコレは良いってわかるんです。野生の勘?みたいな?」
 言いながら、スケッチの線をなぞってみせる。
「浜を走ってる時、体が風を切ってく感じに似てて良いな、って。この、鳥の線」
「そう……それは良かった」
 呻くように言ってうつむいた彼の頰を、消えていく夕陽がほんのり赤く染めている。さっきまでの冷たさが少し和らいだように見えた。
 陽太は自分の言葉と行動が彼に変化をもたらしたことに気づいてなぜか嬉しくなった。
「そうだ、サインを書いてもらえませんか?あなたが描いたって証拠になるし、記念になるから」
 青年は卑屈な笑いを浮かべた。
「記念、なんて。そんな大層なものじゃないだろ」
「オレにとっては記念なんです。だから」
 強く言い返してスケッチを突きつける。相変わらず戸惑ったような様子で、青年は肩に下げたバッグから鉛筆を取り出し、スケッチの片隅に「m.seno」と記した。
「せん……せの……さん?」
「瀬乃。瀬乃瑞希……」
 つい名乗ってしまったことに何となく居心地が悪そうにしている青年に、陽太はぐいと片手を差し出した。
「セノ・ミズキさん、か。オレ、青羽陽太です。よろしく」
 気圧されてか、おずおずと瑞希は陽太の手を取った。陽太は微かに湿り気を帯びた冷たい手をぎゅっと握った。
「来週から土日と夏休みの間は海の家でバイトしてるんで。来てくれたらなんか……コーラとか、かき氷とか。サービスします!絵のお礼に」
 快活な口調で言いながら、自分の手の中でされるがままになっている細い手の感触があまりに儚くて陽太はどことなく不安になった。
――手を離したら、もう会えないかもしれない……
「……別にいいよ、そんな」
 するりと手の中から細い手が逃げていく。そのまま立ち去ろうとする彼に、陽太はポケットにあったバイト先のショップカードを押し付けた。さっき感じた別離の予感へのせめてもの抵抗のつもりで。
「これ、連絡先です。じゃあ、また」
 瑞希がカードをしまったかどうか確認する前に、陽太は踵を返して初夏の青い闇の中を走り出した。

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