暗くなりつつある浜辺を疾走していく陽太をぼんやり見送りながら、瑞希は「大南風(おおみなみ)」という言葉を思い出していた。夏の湿った激しい季節風のことだ。
――暑苦しくてうるさいヤツ……
そう思いつつも、握られた手に刻み込まれた熱と押し付けられたカードを手放せずにいる。
ひたすら居心地が悪い。
瑞希はカードをバッグの底に押し込み、のろのろと歩き始めた。
歩きながら、家でまだ寝込んでいるはずの妹のことを考えた。幼い頃から病弱で、今のような季節の変わり目にはきまって体調を崩して寝込む。
不在がちな両親の代わりに、10歳年上の瑞希は自分を犠牲にして世話をしてきた。高1の夏に両親が交通事故で死ぬと、学校を辞めて今の職場――水産加工工場のライン工として働き始めた。生活が苦しい時は、離れた街の繁華街にでかけて体を売りさえした。
生き延びるため、それから、一瞬でも寂しさを紛らわすため。
幸い、仕事や職場はそれほど辛いものではなかったし、春を売るのも嫌いではなかった。けれど時々、もしも両親が健在で、自分が志していた画業に少しでも理解を示してくれていたら……あるいは、それ以外の周囲の人間が受け入れてくれていたら、どんな人生を歩んでいたんだろう、と思った。
そう思う度、親がぶつけてきた言葉が頭の中で湧き立つ。
――また描いてるの?馬鹿だね、おまえは。ろくに才能もないのに……なんだそれ、誰も見向きもしないよ、そんな絵……
彼らの声が頭の中で響き渡ると、未だに息が詰まりそうになる。
それでも描くことはやめられないでいた。特に仕事が終わって帰る途中で海辺に立ち寄り、適当な紙に鉛筆をはしらせるときが好きだった。単調な日々の中で唯一、きらめいている時間だった。
刻々と代わっていく夕暮れの光のなかで、眼前の怖いくらい広大な世界を写し取る時、あるいは手にした鉛筆が自由に何かを形作っていく時、辛い過去も現実も消えて心地よい「空白」でいられる。
この感覚はきっと誰にもわからないし、わかってもらえない。でもそれでいい。と瑞希は思った。
そうして海辺へ通ううち、よく浜辺を走っている少年がいることに気づいた。
刻々と色を変える空と海の間を走っていく少年の姿は、絶えず押し寄せ、うねり、弾ける白波のような躍動感と、澄んだ空を一直線に飛んでいく渡り鳥のような生命力がみなぎっていて美しかった。そして、幾度か目にするうち、彼を自分の絵の中に閉じ込めたくなった。
近くへ行ってながめることは叶わない。だから、彼を鳥として絵に描き加えた。
描き加えてから、なんとなく恥ずかしくなり消してしまおうかと思った。その時、あの強い風が、スケッチを「鳥」本人の元へ運んでいった。
――あいつは「鳥」が自分だと気づいただろうか……?
家につく頃には日が暮れて空は暗くなっていた。黝い空を背にしたアパートはやけに暗い気がした。自宅の灯りは一つもついていなかった。
――早いな。もう寝たのか。
ぼんやり思いつつ、瑞希は家のカギを開けた。そして、朝家を出たときと何かが違う事に気づいた。
玄関を入ってすぐのキッチンの灯りをつける。テーブルの上に紙切れがある。
『瑞希君へ。前にも相談しましたが、やはり結衣ちゃんはうちで引き取ります。手続きはこちらで行うので……』
すべて読むことはできなかった。紙切れを手に瑞希は立ち尽くした。
一年前くらい前だろうか。母の姉から、本格的に妹を引き取りたいと打診を受けたのは。
それ以前にも幾度かそんな話はあったが、やたらと野良猫を保護しているその女が、妹だけ欲しがる理由をなんとなく察して適当に交わしていた。
おそらく彼女は、ただ単に自分の有り余る庇護欲と承認欲求、自尊心を満たしたいだけなのだ。猫を保護する時は大騒ぎするくせ、その後は雑に扱うところからもそれが分かる。
しかし病弱な上、これから思春期にさしかかる妹を「育てて」いけるのかどうか不安に感じることもあった。だから、真っ当に申し込まれれば了承してもいい、とも思っていた。
こんな形で連れて行かれるとは。
その時、バッグの中でスマートフォンが震え始めた。おもむろに取り出す。見覚えのある名前が画面に表示されている。
「はい……」
――久しぶり。今日はどう?
自分を贔屓にしている「客」だ。くぐもった低い声に、その男の唸るような息遣いや体温、荒っぽい愛撫を思い出す。
「大丈夫。空いてる」
――良かった。すごく会いたかったから
「そう……俺も。会いたかった」
半分世辞で、半分本音だった。瑞希は紙切れを投げ出し、荷物も服もそのままで再び家を出た。
待ち合わせたのは海辺の町から数駅離れただけの街だったが、駅前はどことなくきらびやかで、なにもかも忙しなく思えた。
改札を出て、バスターミナルの柱の影に潜むように待っていると、足早に近づいてくる大きな影があった。
がっしりした体躯の上に脂がのっていて浅黒く、いつも不遜な顔をしている。なんとなく雄牛を思わせる男だが、名前は猪谷という。
彼は瑞希が顔を上げるより先にこちらの腕をつかむと歩き出した。
「……痛いよ、離せ」
骨が軋むほどきつく食い込んだ指に抗うと、猪谷はちらりとこちらを見た。幅広な口の端に満足げな笑みが浮かんでいる。
「もう忘れられてるかと思って心配だったんだ。知らん顔してるもんだから」
そんな可愛い理由でこんなにきつくつかんでいるわけではないことを瑞希は知っていた。こいつは、こちらが悲しんだり苦しんだりすると喜ぶようなやつだ。服を破き、アクセサリーを引き千切り、気を失うまで首を締め上げてくるような。
それでもこうして会うのは、そうされることが寧ろ自分にふさわしい気がして安堵感を覚えるからだ。
特に今日のような、ひどい日は。
猪谷はいつもどおり、繁華街の外れにある古いホテルへ向かった。瑞希は半ば引きずられるように歩きながら虚ろな気持ちでいた。
掴まれている腕の痛みだけが妙にリアルだ。
部屋につくとようやく手が離れた。ため息をつきながらバッグを下ろすと、待ちわびたようにきつく抱きしめられ、体をまさぐられる。
「魚臭えな、相変わらず。今も工場で働いてんのか?」
髪に顔をうずめ、嘲るように猪谷は言った。
「そうだよ……今シャワー浴びるから」
「いや、このままでいい」
唸るように荒い息をしながら猪谷は瑞希を床へ押し倒した。
がつんと後頭部がぶつかって視界で火花が散り、同時に重い体がのしかかってきて息が詰まりそうになる。
首筋に噛みついてくる猪谷の髪を思わずつかみ、引き剥がそうとすると、逆に骨が軋むほどきつく掴み返され床へぎりぎりと抑え込まれた。
吹きかけられる湿った生臭い息と、目の前でぎらついている血走った目に本能的な恐怖を覚える。分厚く重たい体に押しつぶされた胸の鼓動が全身に響いてくる。
「抵抗するなよ。好きだろ?こういうのが……」
ひずんだ声が耳元で囁き、太い人差し指と親指が喉笛を押さえつける。ざらついた肌の感触と、つぶれていく喉の感触を味わっているような指の蠢き。
――いっそ、このまま死ねたら……
苦しさと痛さを感じている肉体と裏腹に、気持ちが妙に安らいでいく。
――あの空っぽな家に帰らなくていいのに
視界がちらつき、頭の中にもやがかかりはじめる。
朦朧とした意識の中で、鼓動に重なって海鳴りが響き、輝く白い波がうねっている。まばゆい光の中に立っている人影が、こちらに手を差し出している。締め上げてくる手と違う、柔らかな温かさを持った手……
意識が落ちる寸前でふいに手を離された。涙目になりつつ必死で喘ぐと、満足そうに猪谷は笑って、再び重たくのしかかった。
湿気て冷たいシーツにうつ伏せて、瑞希は猪谷が服を身につけているのを物憂く眺めていた。
腹の奥に幾度も打ち込まれた快感が、痛みと苦しさと絡み合って未だに体の芯が疼いている。喉には太く冷たい指の感触が刻印のように残っていた。
「なあ、これおまえが描いたの?」
猪谷は床に転がった瑞希のバッグからはみ出した紙の束を拾ってじっと眺めていた。
一瞬、瑞希は心臓をつかまれたような感覚を覚えた。「客」なぞに、それもこの男のようなおぞましい人間に自分の絵を見られたくなかった。
「た、たまに、なんとなく描いてみてるだけ……ただのひまつぶしで」
次に何を言われるか、されるか、恐ろしくて顔を枕にうずめる。
しかし、聞こえてくるのは紙をめくる音だけだった。
「そうなの?その割には上手いじゃん。この、波の線とか。なんか……官能的でさ」
おずおずと顔を上げると、傍らで猪谷が妙な笑いを浮かべていた。鼻先に紙幣が放られる。いつもの倍の額だ。
「ほら、絵の礼も込みだ。次会う時も見せろよ」
「次って……」
「そうだ、次は俺を描けよ。波みたいな、やらしい線でさ」
猪谷は下卑た声で笑い、虚ろな目をしている瑞希の頭を乱暴に撫で回した。
――暑苦しくてうるさいヤツ……
そう思いつつも、握られた手に刻み込まれた熱と押し付けられたカードを手放せずにいる。
ひたすら居心地が悪い。
瑞希はカードをバッグの底に押し込み、のろのろと歩き始めた。
歩きながら、家でまだ寝込んでいるはずの妹のことを考えた。幼い頃から病弱で、今のような季節の変わり目にはきまって体調を崩して寝込む。
不在がちな両親の代わりに、10歳年上の瑞希は自分を犠牲にして世話をしてきた。高1の夏に両親が交通事故で死ぬと、学校を辞めて今の職場――水産加工工場のライン工として働き始めた。生活が苦しい時は、離れた街の繁華街にでかけて体を売りさえした。
生き延びるため、それから、一瞬でも寂しさを紛らわすため。
幸い、仕事や職場はそれほど辛いものではなかったし、春を売るのも嫌いではなかった。けれど時々、もしも両親が健在で、自分が志していた画業に少しでも理解を示してくれていたら……あるいは、それ以外の周囲の人間が受け入れてくれていたら、どんな人生を歩んでいたんだろう、と思った。
そう思う度、親がぶつけてきた言葉が頭の中で湧き立つ。
――また描いてるの?馬鹿だね、おまえは。ろくに才能もないのに……なんだそれ、誰も見向きもしないよ、そんな絵……
彼らの声が頭の中で響き渡ると、未だに息が詰まりそうになる。
それでも描くことはやめられないでいた。特に仕事が終わって帰る途中で海辺に立ち寄り、適当な紙に鉛筆をはしらせるときが好きだった。単調な日々の中で唯一、きらめいている時間だった。
刻々と代わっていく夕暮れの光のなかで、眼前の怖いくらい広大な世界を写し取る時、あるいは手にした鉛筆が自由に何かを形作っていく時、辛い過去も現実も消えて心地よい「空白」でいられる。
この感覚はきっと誰にもわからないし、わかってもらえない。でもそれでいい。と瑞希は思った。
そうして海辺へ通ううち、よく浜辺を走っている少年がいることに気づいた。
刻々と色を変える空と海の間を走っていく少年の姿は、絶えず押し寄せ、うねり、弾ける白波のような躍動感と、澄んだ空を一直線に飛んでいく渡り鳥のような生命力がみなぎっていて美しかった。そして、幾度か目にするうち、彼を自分の絵の中に閉じ込めたくなった。
近くへ行ってながめることは叶わない。だから、彼を鳥として絵に描き加えた。
描き加えてから、なんとなく恥ずかしくなり消してしまおうかと思った。その時、あの強い風が、スケッチを「鳥」本人の元へ運んでいった。
――あいつは「鳥」が自分だと気づいただろうか……?
家につく頃には日が暮れて空は暗くなっていた。黝い空を背にしたアパートはやけに暗い気がした。自宅の灯りは一つもついていなかった。
――早いな。もう寝たのか。
ぼんやり思いつつ、瑞希は家のカギを開けた。そして、朝家を出たときと何かが違う事に気づいた。
玄関を入ってすぐのキッチンの灯りをつける。テーブルの上に紙切れがある。
『瑞希君へ。前にも相談しましたが、やはり結衣ちゃんはうちで引き取ります。手続きはこちらで行うので……』
すべて読むことはできなかった。紙切れを手に瑞希は立ち尽くした。
一年前くらい前だろうか。母の姉から、本格的に妹を引き取りたいと打診を受けたのは。
それ以前にも幾度かそんな話はあったが、やたらと野良猫を保護しているその女が、妹だけ欲しがる理由をなんとなく察して適当に交わしていた。
おそらく彼女は、ただ単に自分の有り余る庇護欲と承認欲求、自尊心を満たしたいだけなのだ。猫を保護する時は大騒ぎするくせ、その後は雑に扱うところからもそれが分かる。
しかし病弱な上、これから思春期にさしかかる妹を「育てて」いけるのかどうか不安に感じることもあった。だから、真っ当に申し込まれれば了承してもいい、とも思っていた。
こんな形で連れて行かれるとは。
その時、バッグの中でスマートフォンが震え始めた。おもむろに取り出す。見覚えのある名前が画面に表示されている。
「はい……」
――久しぶり。今日はどう?
自分を贔屓にしている「客」だ。くぐもった低い声に、その男の唸るような息遣いや体温、荒っぽい愛撫を思い出す。
「大丈夫。空いてる」
――良かった。すごく会いたかったから
「そう……俺も。会いたかった」
半分世辞で、半分本音だった。瑞希は紙切れを投げ出し、荷物も服もそのままで再び家を出た。
待ち合わせたのは海辺の町から数駅離れただけの街だったが、駅前はどことなくきらびやかで、なにもかも忙しなく思えた。
改札を出て、バスターミナルの柱の影に潜むように待っていると、足早に近づいてくる大きな影があった。
がっしりした体躯の上に脂がのっていて浅黒く、いつも不遜な顔をしている。なんとなく雄牛を思わせる男だが、名前は猪谷という。
彼は瑞希が顔を上げるより先にこちらの腕をつかむと歩き出した。
「……痛いよ、離せ」
骨が軋むほどきつく食い込んだ指に抗うと、猪谷はちらりとこちらを見た。幅広な口の端に満足げな笑みが浮かんでいる。
「もう忘れられてるかと思って心配だったんだ。知らん顔してるもんだから」
そんな可愛い理由でこんなにきつくつかんでいるわけではないことを瑞希は知っていた。こいつは、こちらが悲しんだり苦しんだりすると喜ぶようなやつだ。服を破き、アクセサリーを引き千切り、気を失うまで首を締め上げてくるような。
それでもこうして会うのは、そうされることが寧ろ自分にふさわしい気がして安堵感を覚えるからだ。
特に今日のような、ひどい日は。
猪谷はいつもどおり、繁華街の外れにある古いホテルへ向かった。瑞希は半ば引きずられるように歩きながら虚ろな気持ちでいた。
掴まれている腕の痛みだけが妙にリアルだ。
部屋につくとようやく手が離れた。ため息をつきながらバッグを下ろすと、待ちわびたようにきつく抱きしめられ、体をまさぐられる。
「魚臭えな、相変わらず。今も工場で働いてんのか?」
髪に顔をうずめ、嘲るように猪谷は言った。
「そうだよ……今シャワー浴びるから」
「いや、このままでいい」
唸るように荒い息をしながら猪谷は瑞希を床へ押し倒した。
がつんと後頭部がぶつかって視界で火花が散り、同時に重い体がのしかかってきて息が詰まりそうになる。
首筋に噛みついてくる猪谷の髪を思わずつかみ、引き剥がそうとすると、逆に骨が軋むほどきつく掴み返され床へぎりぎりと抑え込まれた。
吹きかけられる湿った生臭い息と、目の前でぎらついている血走った目に本能的な恐怖を覚える。分厚く重たい体に押しつぶされた胸の鼓動が全身に響いてくる。
「抵抗するなよ。好きだろ?こういうのが……」
ひずんだ声が耳元で囁き、太い人差し指と親指が喉笛を押さえつける。ざらついた肌の感触と、つぶれていく喉の感触を味わっているような指の蠢き。
――いっそ、このまま死ねたら……
苦しさと痛さを感じている肉体と裏腹に、気持ちが妙に安らいでいく。
――あの空っぽな家に帰らなくていいのに
視界がちらつき、頭の中にもやがかかりはじめる。
朦朧とした意識の中で、鼓動に重なって海鳴りが響き、輝く白い波がうねっている。まばゆい光の中に立っている人影が、こちらに手を差し出している。締め上げてくる手と違う、柔らかな温かさを持った手……
意識が落ちる寸前でふいに手を離された。涙目になりつつ必死で喘ぐと、満足そうに猪谷は笑って、再び重たくのしかかった。
湿気て冷たいシーツにうつ伏せて、瑞希は猪谷が服を身につけているのを物憂く眺めていた。
腹の奥に幾度も打ち込まれた快感が、痛みと苦しさと絡み合って未だに体の芯が疼いている。喉には太く冷たい指の感触が刻印のように残っていた。
「なあ、これおまえが描いたの?」
猪谷は床に転がった瑞希のバッグからはみ出した紙の束を拾ってじっと眺めていた。
一瞬、瑞希は心臓をつかまれたような感覚を覚えた。「客」なぞに、それもこの男のようなおぞましい人間に自分の絵を見られたくなかった。
「た、たまに、なんとなく描いてみてるだけ……ただのひまつぶしで」
次に何を言われるか、されるか、恐ろしくて顔を枕にうずめる。
しかし、聞こえてくるのは紙をめくる音だけだった。
「そうなの?その割には上手いじゃん。この、波の線とか。なんか……官能的でさ」
おずおずと顔を上げると、傍らで猪谷が妙な笑いを浮かべていた。鼻先に紙幣が放られる。いつもの倍の額だ。
「ほら、絵の礼も込みだ。次会う時も見せろよ」
「次って……」
「そうだ、次は俺を描けよ。波みたいな、やらしい線でさ」
猪谷は下卑た声で笑い、虚ろな目をしている瑞希の頭を乱暴に撫で回した。