3.交差する線



2025-07-25 17:48:35
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陽太は来たときと同じように宵闇の浜辺を走って帰宅し、もっと時間に気をつけて走りなさいよ、などと母親に文句を言われつつ風呂へ直行した。
 そろそろ切らないとかな、などと思いつつ、くしゃくしゃな髪を雑に拭きながら出ると、ちょうど大学から帰宅した姉がリビングのテーブルに置いておいた瑞希のスケッチに目を留めていた。
「これ、どうしたの?」
「海で描いてた人にもらったんだ。いいだろ」
「ふうん。ハルくんが絵を気に入るなんて、ねえ?」
 からかうように言いつつ、姉は熱心に見ている。美術や音楽といった芸術的なものに疎い陽太と違い、しょっちゅう美術館に通い、音楽家の友人のコンサートに顔を出したりしている姉が、「らくがきだ」と吐き捨てるように言っていた瑞希の絵に魅入っている様子なのを見て、陽太は胸の底がくすぐったいような感覚を覚えた。
「これ……m.seno、って、もしかして瀬乃くん?」
「え、姉貴、知ってるの?」
 姉はじっとスケッチを眺めつつうなずいた。
「高校の時、隣のクラスにいた子で、同じ美術のクラスを選択してたんだよね。クロッキーがすごく上手だったな……線が「生きてる」みたいな感じで。でも」
 姉は少し言いづらそうに続けた。
「高1の夏だったかな。親御さんが事故で亡くなって……たしか、妹さんがまだ小さいから働かないといけない、とかで中退しちゃった……でもまだ描いてるんだね」
 姉からスケッチを渡され、陽太は重たい気持ちでそれを眺めた。
 果てしなく広がる空と海、自由に飛ぶ鳥に、彼がどんな思いを込めていたのだろう、そして、どんな気持ちでそれを否定するようなことを言ったのだろう、と思うと、描かれた世界ごと彼を抱きしめたいような衝動に駆られた。
「あのさ。瀬乃さんって、どんな子だったの」
 自室に行こうとする姉を陽太は引き留めた。彼に関することを少しでも知りたかった。
「うーん……陽太とは正反対な感じかな?」
「オレと正反対?」
「そ。色白で大人しくて、いつも教室の隅でみんなを眺めてる、みたいな……あ、それに、成績も結構良かったみたいだし」
 珍しく深刻そうな顔をしている陽太に、姉は軽口を叩くように言った。
「成績は……関係ないだろ」
「まぁ要するに、うるさくて脳筋なハルくんとは正反対、ってことだよ」
 にやりと笑って姉はリビングを出ていく。
 最後の一言は余計だと思ったが、「正反対だ」という彼女の言葉には納得できた。
 日差しの中で常にふざけあい笑い合っているような自分や友達と違って、影の中に独りで佇み、潮風や波音に耳を傾けているような人。
 彼が日頃どんな風に生きているのか想像ができない。

自室でスケッチを眺めながら、陽太は瑞希とのやりとりを噛みしめるように思い返していた。
――オレが、夕日と絵を見て泣いてたの、やっぱり気づいたかな。
 あの冷ややかな笑みを思い出すと恥ずかしくて全身が熱くなる。けれど、それを見たのが瑞希で良かった、とも思った。
 この線が好きだ、と告げた時の、少し驚いたような、それでいて切実にこちらを求めてくるような眼差しが脳裏に焼き付いている。
 たしかにあの時、自分は彼の感性に呼応していた。そして、彼の方でも触れてほしくて手を伸べていたのかもしれない。
 そう思うと胸の奥が軋むように、けれど心地よく痛んだ。
――絵を描くときは、どんな気持ちなんだろう。楽しくてたまらない感じ?オレが走ってる時みたいに。それとも、夢を見てる時みたいな、ぼんやりした感じ……?
 陽太は額縁代わりのクリアファイルへスケッチを収め、部屋の机の前の壁に青色のピンで留めた。 そうすることで、なんとなくそれが瑞希へつながる「扉」のように思えた。
――また海に行くよ。そしたらまた会えるよね……オレ、もっとあなたのことを知りたい……
 ファイル越しにそっとスケッチの線を撫でてみる。あの消えそうに細い手が引いた「生きてるみたい」な線。そこに言葉にはできない瑞希の「全て」があるような気がして、陽太は慈しむように幾度も線を撫でた。
 そして、そのしなやかで強い線がとても好きだ、とはっきり思った。

陽太は翌日も、その翌日も走りながら瑞希を探した。けれど、あの宵闇の影に溶けてしまいそうな儚い影を見つけることができなかった。
 南方の島々が入梅したというニュースを聞いた日、梅雨に入ったらしばらく走れないな、と、最初に会った岩場で曇り空を眺めながら思った。