瑞希の家は海から10分ほどのところだった。
木造の古いアパートで、1階と2階合わせて8軒ほどの居室があるが、人が住んでいるのは3軒ほどのようである。建物の古さとひとけの無さ、それに雨が降っているのもあってなんとなく侘びしく暗い雰囲気が漂っていた。
無言のまま、陽太は瑞希の後について蛍光灯のちらつく外階段を上がった。雨が吹き込んできて通路が濡れて光っている。どうかすると滑りそうだ。
通路の一番奥の居室が瑞希の家だった。軋みながらドアが開けられ、湿った生ぬるい空気に包まれる。なんとなくホッとしたのと同時に、黄色っぽい灯りがつけられ室内の様子が照らし出された。
陽太はすぐに、この家は誰かが「出ていった」ばかりなのだと気づいた。玄関の傘立てにはビニール傘の他に小さな黄色の傘が一本だけあり、ピンク色の縄跳びが下に転がっている。入ってすぐのダイニングキッチンには木製の折りたたみテーブルと椅子が二脚あり、片方には丸い水色のクッションが置かれ、テーブルと壁にはかわいい動物や花のステッカーが何枚か貼られている。しかし、他に瑞希以外の「誰か」がここに住んでいるらしい痕跡はない。
陽太が「誰か」の不在に気づいている様子なのを見て、瑞希は何気ない風に言った。
「ちょっと前まで妹と住んでてね。今はおばさんのところにいるけど」
それ以上、彼は説明をしなかったが、陽太はその虚ろな表情をみて、どういう理由でなのかはわからないが妹との関係を断たれたのだ、と悟った。
なんと声をかければいいかわからず黙っていると、瑞希はバッグからスマートフォンを取り出してこちらへ差し出した。
「……家族に連絡しとけ。きっと心配してる」
「あ、ありがとうございます」
きっとこういう気遣いをするのも「兄」だからなんだろうな、と陽太は思った。そう思うと胸の内が温かく、そしてなんだか切なくなる。
かろうじて覚えていた母の電話番号にかけたが応答はなく、留守電に現状と雨が落ち着いたら帰る旨を登録した。自分の雑な説明で、上手く伝わるだろうかと少し不安になる。
「連絡ついたか?」
スマートフォンと引き換えにバスタオルを渡しながら瑞希が聞いてくる。
「母さん……母にかけたけどつながらなかったです。あ、でも留守電に入れといたんで平気かな」
自分の頭と顔も拭きながら、瑞希はやれやれ、と言いたげにため息を付いた。陽太も同じように髪を拭きながら、何気なくキッチンの先にある部屋を覗いた。奥の四角い窓の下にベッドがあり、手前に小さなソファとテーブル、その上に紙の束やスケッチブックらしきものが積まれているのが見える。
「あの……絵、見てもいいですか?オレ、瑞希さんの絵をもっと見たいんです」
部屋の奥を示しつつ言うと、瑞希は一瞬沈んだ顔つきをした。しかし、すぐ自室へ入って灯りをつけるとスケッチブックを手に取り、黙ったまま無造作に差し出した。
受け取ったスケッチブックは見た目以上に重たく感じられた。ページ一枚一枚が少しだけたわみ、湿っている。きっと海風を受けたせいだ。と陽太は思った。思った通り、描かれているのはほとんどが海の風景で、簡素で力強い線で描かれたスケッチの他に、そこへ淡く色をのせた水彩画もあった。
引き込まれるようにページをめくっていくと、海の絵の合間に妹とおぼしき小学生くらいの少女のスケッチがあった。キッチンのテーブルで丸い鉛筆をにぎりしめ、何か描いているところを正面から描いたものだ。
ふと頭の中に、楽しげに笑い合いながら絵を描いている兄妹の姿が浮かび上がる。
「これ……妹さんですよね」
「宿題で身近な人を描くんだっていうから。つきあってやったんだ」
じっとそのスケッチを見つめる陽太に瑞希は素っ気なく言った。その素っ気なさが逆に寂しげな気持ちを表しているようで、陽太は何か思い切ったことを言いたくなった。
「あの、オレのことも描いて欲しいんです。オレも、瑞希さんのこと描くから」
瑞希が返事をするよりさきに、陽太はスケッチブックの空いているページを開くとソファに腰を下ろし、テーブルに転がっているちびた鉛筆を手に取った。瑞希は若干うろたえた様子でいる。
「なんでそんなことしないといけないんだよ」
「良いじゃないですか。オレ、瑞希さんが描いているとこ見たいんです。それに……もっとあなたを、見たい」
いつになく真剣な顔をして猛然と描き始めた陽太を、瑞希は呆れ顔で眺めた。そして、仕方なくその隣に座って新しいスケッチブックを開いた。
「瑞希さんはなんで絵を描くんですか?」
ガリガリと音を立てながら鉛筆を動かし、陽太は聞いた。
「なんで、って言われても。……ただ、描きたいから」
「へえ……なんかカッコいい。そこに描きたいものがあるから、みたいな?」
嬉しそうに笑う陽太に、瑞希は少し苛立ちつつ言葉をぶつけた。
「で、おまえはなんで走るんだ?足があるからか?」
「……うーん。なんでだろう」
ふと無邪気な笑みを消し、手を止めて考え込む彼を瑞希は観察した。海辺で見たのと同じ、どこか遠くというか、幻を見ているような顔つきをしている。
「走っていると……色んな嫌なこととか、ひっかかってることとかが消えていって……透明になるんです。海とか、風みたいに」
キッチンからの黄色い光をうけて柔らかくうねった髪がほのかに輝き、陰った顔の中でぼんやりと宙をみる目は窓からわずかに差す外の灯りをうけ、小さな星を宿している。その光に吸い込まれるように瑞希は彼を見つめ、描き始めた。
夢中で描いている瑞希に、射すくめるように何度も見つめられて陽太は思わず少し俯いた。
途端に鋭い声が飛ぶ。
「俯くな。前を向け」
陽太は思わず体を硬くし、なんとか前を向いた。
「ごめんなさい、な、なんか……恥ずかしくなっちゃって」
微妙に自分の声が震えているのに気づいて、陽太は顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
スケッチブックから目を上げ、それをちらりと見た瑞希はふと何かひらめいたような表情をし、尚も夢中で鉛筆を走らせる。
「あの……そんなにオレ、描きたくなる人、なんですか」
その真剣さに思わず陽太は聞いた。頭の中でかつて、好きだった女子に言われた言葉が蘇ってくる。
「……なんでそんなこと聞くんだ?」
手を止め、不思議そう、というよりは不満そうに瑞希は尋ねた。そんなくだらないことを聞くな、と言いたげだ。
「いや、その。前に言われたことがあって。何をどうしてもガキくさい、とか、見るからに暑苦しくてうるさい、とか」
言葉にするとますます恥ずかしくなり、陽太は俯いて顔を両手で覆った。
こんな情けない自分を描いて欲しい、と言ったこと、その事自体も恥ずかしい。そして、そういう自分の心根を全て見抜かれてしまいそうで、怖い。
「あの……ホントごめんなさい。描いて欲しい、なんて」
不意に顔を覆った手を捕まれ、こじ開けられる。ひどく真剣な目をした瑞希がまっすぐにこっちを見ている。今まで見た、どこか拗ねたような虚ろな表情はどこにもなく、ただ「描くこと」に飢えて燃えているような表情――つかまれた手がやけに熱い。
「隠すな。もっと見せてくれ」
囁くような、しかし熱を帯びた声が鼻先に吹きかかる。陽太は微かに震え、浅い呼吸をしつつ目を上げた。
熱を帯びた視線と視線が、呼吸と呼吸とがぶつかる。きつくつかまれていた手がゆるんで重ねられ、指が絡み合う。
――瑞希さんの手、冷たい……きっと、心が温かいから……
陽太はそんなことをぼんやり思った。思いながら、繋がった手をぎゅっと握った。眼前の真剣な目がふと柔らかくなり、薄い唇が優しく笑む。
引き寄せられるように陽太は、その唇に唇でそっと触れた。
瑞希は、揺蕩うような目を陽太に向け、小さくため息をついた。そして、何か言おうとしたが、何も言えずにまた陽太をじっと見つめた。
幾度か大きな目が瞬き、震え、涙が零れ落ちる。
陽太も何か言おうとした。しかし何を言えば良いのかわからなかった。そして、言葉を発するより先に体が動いた。
繋いだ冷たい手を撫で、腕を手繰り寄せる。されるがまま、細い体が腕の中に倒れ込んでくる。
陽太は出来る限りそっと、優しくその体を抱きしめた。かろうじてそれを拒むように腕へ添えられていた瑞希の手が、おずおずと背中へ伸べられ、そっとシャツをつかむ。陽太は手の下で微かに慄いている背中を、まだ湿っている髪を慈しむように撫でた。
「瑞希さん……オレ、あなたの線がすごくスキで、それに」
あなたのことも、と言いたいのだが、喉の奥から熱いものがこみあげてきて言葉が出ない。もどかしくて陽太はいっそう深く瑞希を抱きしめた。
と同時に電話が鳴った。
木造の古いアパートで、1階と2階合わせて8軒ほどの居室があるが、人が住んでいるのは3軒ほどのようである。建物の古さとひとけの無さ、それに雨が降っているのもあってなんとなく侘びしく暗い雰囲気が漂っていた。
無言のまま、陽太は瑞希の後について蛍光灯のちらつく外階段を上がった。雨が吹き込んできて通路が濡れて光っている。どうかすると滑りそうだ。
通路の一番奥の居室が瑞希の家だった。軋みながらドアが開けられ、湿った生ぬるい空気に包まれる。なんとなくホッとしたのと同時に、黄色っぽい灯りがつけられ室内の様子が照らし出された。
陽太はすぐに、この家は誰かが「出ていった」ばかりなのだと気づいた。玄関の傘立てにはビニール傘の他に小さな黄色の傘が一本だけあり、ピンク色の縄跳びが下に転がっている。入ってすぐのダイニングキッチンには木製の折りたたみテーブルと椅子が二脚あり、片方には丸い水色のクッションが置かれ、テーブルと壁にはかわいい動物や花のステッカーが何枚か貼られている。しかし、他に瑞希以外の「誰か」がここに住んでいるらしい痕跡はない。
陽太が「誰か」の不在に気づいている様子なのを見て、瑞希は何気ない風に言った。
「ちょっと前まで妹と住んでてね。今はおばさんのところにいるけど」
それ以上、彼は説明をしなかったが、陽太はその虚ろな表情をみて、どういう理由でなのかはわからないが妹との関係を断たれたのだ、と悟った。
なんと声をかければいいかわからず黙っていると、瑞希はバッグからスマートフォンを取り出してこちらへ差し出した。
「……家族に連絡しとけ。きっと心配してる」
「あ、ありがとうございます」
きっとこういう気遣いをするのも「兄」だからなんだろうな、と陽太は思った。そう思うと胸の内が温かく、そしてなんだか切なくなる。
かろうじて覚えていた母の電話番号にかけたが応答はなく、留守電に現状と雨が落ち着いたら帰る旨を登録した。自分の雑な説明で、上手く伝わるだろうかと少し不安になる。
「連絡ついたか?」
スマートフォンと引き換えにバスタオルを渡しながら瑞希が聞いてくる。
「母さん……母にかけたけどつながらなかったです。あ、でも留守電に入れといたんで平気かな」
自分の頭と顔も拭きながら、瑞希はやれやれ、と言いたげにため息を付いた。陽太も同じように髪を拭きながら、何気なくキッチンの先にある部屋を覗いた。奥の四角い窓の下にベッドがあり、手前に小さなソファとテーブル、その上に紙の束やスケッチブックらしきものが積まれているのが見える。
「あの……絵、見てもいいですか?オレ、瑞希さんの絵をもっと見たいんです」
部屋の奥を示しつつ言うと、瑞希は一瞬沈んだ顔つきをした。しかし、すぐ自室へ入って灯りをつけるとスケッチブックを手に取り、黙ったまま無造作に差し出した。
受け取ったスケッチブックは見た目以上に重たく感じられた。ページ一枚一枚が少しだけたわみ、湿っている。きっと海風を受けたせいだ。と陽太は思った。思った通り、描かれているのはほとんどが海の風景で、簡素で力強い線で描かれたスケッチの他に、そこへ淡く色をのせた水彩画もあった。
引き込まれるようにページをめくっていくと、海の絵の合間に妹とおぼしき小学生くらいの少女のスケッチがあった。キッチンのテーブルで丸い鉛筆をにぎりしめ、何か描いているところを正面から描いたものだ。
ふと頭の中に、楽しげに笑い合いながら絵を描いている兄妹の姿が浮かび上がる。
「これ……妹さんですよね」
「宿題で身近な人を描くんだっていうから。つきあってやったんだ」
じっとそのスケッチを見つめる陽太に瑞希は素っ気なく言った。その素っ気なさが逆に寂しげな気持ちを表しているようで、陽太は何か思い切ったことを言いたくなった。
「あの、オレのことも描いて欲しいんです。オレも、瑞希さんのこと描くから」
瑞希が返事をするよりさきに、陽太はスケッチブックの空いているページを開くとソファに腰を下ろし、テーブルに転がっているちびた鉛筆を手に取った。瑞希は若干うろたえた様子でいる。
「なんでそんなことしないといけないんだよ」
「良いじゃないですか。オレ、瑞希さんが描いているとこ見たいんです。それに……もっとあなたを、見たい」
いつになく真剣な顔をして猛然と描き始めた陽太を、瑞希は呆れ顔で眺めた。そして、仕方なくその隣に座って新しいスケッチブックを開いた。
「瑞希さんはなんで絵を描くんですか?」
ガリガリと音を立てながら鉛筆を動かし、陽太は聞いた。
「なんで、って言われても。……ただ、描きたいから」
「へえ……なんかカッコいい。そこに描きたいものがあるから、みたいな?」
嬉しそうに笑う陽太に、瑞希は少し苛立ちつつ言葉をぶつけた。
「で、おまえはなんで走るんだ?足があるからか?」
「……うーん。なんでだろう」
ふと無邪気な笑みを消し、手を止めて考え込む彼を瑞希は観察した。海辺で見たのと同じ、どこか遠くというか、幻を見ているような顔つきをしている。
「走っていると……色んな嫌なこととか、ひっかかってることとかが消えていって……透明になるんです。海とか、風みたいに」
キッチンからの黄色い光をうけて柔らかくうねった髪がほのかに輝き、陰った顔の中でぼんやりと宙をみる目は窓からわずかに差す外の灯りをうけ、小さな星を宿している。その光に吸い込まれるように瑞希は彼を見つめ、描き始めた。
夢中で描いている瑞希に、射すくめるように何度も見つめられて陽太は思わず少し俯いた。
途端に鋭い声が飛ぶ。
「俯くな。前を向け」
陽太は思わず体を硬くし、なんとか前を向いた。
「ごめんなさい、な、なんか……恥ずかしくなっちゃって」
微妙に自分の声が震えているのに気づいて、陽太は顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
スケッチブックから目を上げ、それをちらりと見た瑞希はふと何かひらめいたような表情をし、尚も夢中で鉛筆を走らせる。
「あの……そんなにオレ、描きたくなる人、なんですか」
その真剣さに思わず陽太は聞いた。頭の中でかつて、好きだった女子に言われた言葉が蘇ってくる。
「……なんでそんなこと聞くんだ?」
手を止め、不思議そう、というよりは不満そうに瑞希は尋ねた。そんなくだらないことを聞くな、と言いたげだ。
「いや、その。前に言われたことがあって。何をどうしてもガキくさい、とか、見るからに暑苦しくてうるさい、とか」
言葉にするとますます恥ずかしくなり、陽太は俯いて顔を両手で覆った。
こんな情けない自分を描いて欲しい、と言ったこと、その事自体も恥ずかしい。そして、そういう自分の心根を全て見抜かれてしまいそうで、怖い。
「あの……ホントごめんなさい。描いて欲しい、なんて」
不意に顔を覆った手を捕まれ、こじ開けられる。ひどく真剣な目をした瑞希がまっすぐにこっちを見ている。今まで見た、どこか拗ねたような虚ろな表情はどこにもなく、ただ「描くこと」に飢えて燃えているような表情――つかまれた手がやけに熱い。
「隠すな。もっと見せてくれ」
囁くような、しかし熱を帯びた声が鼻先に吹きかかる。陽太は微かに震え、浅い呼吸をしつつ目を上げた。
熱を帯びた視線と視線が、呼吸と呼吸とがぶつかる。きつくつかまれていた手がゆるんで重ねられ、指が絡み合う。
――瑞希さんの手、冷たい……きっと、心が温かいから……
陽太はそんなことをぼんやり思った。思いながら、繋がった手をぎゅっと握った。眼前の真剣な目がふと柔らかくなり、薄い唇が優しく笑む。
引き寄せられるように陽太は、その唇に唇でそっと触れた。
瑞希は、揺蕩うような目を陽太に向け、小さくため息をついた。そして、何か言おうとしたが、何も言えずにまた陽太をじっと見つめた。
幾度か大きな目が瞬き、震え、涙が零れ落ちる。
陽太も何か言おうとした。しかし何を言えば良いのかわからなかった。そして、言葉を発するより先に体が動いた。
繋いだ冷たい手を撫で、腕を手繰り寄せる。されるがまま、細い体が腕の中に倒れ込んでくる。
陽太は出来る限りそっと、優しくその体を抱きしめた。かろうじてそれを拒むように腕へ添えられていた瑞希の手が、おずおずと背中へ伸べられ、そっとシャツをつかむ。陽太は手の下で微かに慄いている背中を、まだ湿っている髪を慈しむように撫でた。
「瑞希さん……オレ、あなたの線がすごくスキで、それに」
あなたのことも、と言いたいのだが、喉の奥から熱いものがこみあげてきて言葉が出ない。もどかしくて陽太はいっそう深く瑞希を抱きしめた。
と同時に電話が鳴った。