車で迎えに来た母親に連れられていく陽太を見送り、瑞希は陽太の母親からなかば押し付けるように渡された、お菓子やジュースのペットボトルが入ったビニール袋の重さを温かく感じた。そして、その温かさや重たさに陽太の暑苦しさと同じものを感じていた。
――暑苦しくてうるさい、のは親譲りか。
そんなことを考えながら一人きりのがらんとした家に戻ると、いつもより余計に寒々しい空間に思える。思わずため息をついたとき、スマートフォンの画面に知らない番号からのショートメールが表示された。
『ハルタ:今日は、ホントありがとうございました!!絵を見せてもらってうれしかったです!あ、あと!また遊びに行ってもいいですか???なんて?!』
感嘆符が多い「うるさい」文面に瑞希は思わず苦笑し、それから、少し前に触れた唇の熱を思い出した。
あの瞬間、自分は描くことに耽溺していた。眼前にある、初めて自分の内面を見つめている少年のほころんだ蕾のような表情を捉えることに夢中だった。風に拭かれた花々が触れ合うように口付けられるまでは。
ほんの一瞬触れられただけだったのに、熱も感触も生々しく残っている。他人ともっと深い関係をもったことなど幾らでもあるのに、どんな行為よりも強く、深く繋がった瞬間だった気がした。
思わず涙が出たのもそのせいだろうか。
――あいつ、あんな表情をするなんて思わなかった
途中まで描いた陽太のスケッチを見返す。描きかけではあるが、遠くから眺めていただけの時よりもずっとはっきりと「陽太自身」を捉えられた気がした。
そして、もう一度間近で見つめて、もっと描きたい、と強く思った。
『mizuki:いいよ。また描かせてほしい』
全国的に梅雨入りしたニュースが報じられ、それから雨の日が続いた。
窓を打つ雨音を聞きながら、陽太は自分を描いている瑞希を見つめた。無駄にしゃべったり動いたりせず、じっと留まってモデルを務めることにはだいぶ慣れてきた。と思った。そして、瑞希に鋭く観察されることにもそれなりに慣れた。
惹かれてやまない線と、それを生み出す目や手に、自分の姿形や内心で渦巻いているもの、が、丁寧にすくい取られて整えられ、新たな形を与えられていく、というのは静かではあるがなんとも言えない高揚感があった。体に触れることも、言葉や視線を交わすことさえもないのに、もっと深い部分で触れ合っているような気がした。
「できた」
ぴしり、と音を立てて鉛筆とスケッチブックをテーブルに置き、瑞希は水から上がった人のように長く息をついた。
陽太は少し俯けていた顔をパッと上げ、見たくて仕方なかった「自分が描かれた絵」を見た。胸の少し下辺りでゆるく手を組み、少し顔を俯け、目を伏せて微笑んでいる少年がそこにいる。無駄のないはっきりした線で描かれているが、その表情のせいか優しい印象を受ける。
――ホントにオレ、こんな顔してるのかな……?
嬉しいような気恥ずかしいような気持ちで陽太は自分の絵をしげしげと眺めた。
――他の人がこれを見たら、オレだって気づくのかな。
そう思うと、自分の周囲の人々に絵を見せたくなった。
「あの……この絵、他の人に見せてもいいですか?家族とか……あ、バイト先の人とか!」
丸くなった鉛筆を削っていた瑞希は、その手を止めずにそっけなく答えた。
「別に良いけど」
完成したものはもう終わったもので、それ以上興味がない、といった風だった。陽太は、前に海のスケッチをもらったときと同じくサインを書いてもらい、大切にそのスケッチを持ち帰った。
数日間、スケッチは陽太のバッグの中にしまわれていた。
忘れていたわけではない。きちんとファイリングし、毎日取り出して眺めてみてはいたものの、それを他人に見せるのはなんだか気が引けた。瑞希の絵を人に見せるのが嫌だったのではなく、描かれているのが自分である、ということが問題だった。それに、自分が絵のモデルを務めていることを知られるのにも抵抗があった。
――笑われるとか、変に思われたら……嫌だな。
絵の中で微笑んでいる自分や、それを描いている瑞希を思い浮かべながら陽太はため息を付いた。そんなことをされたら、あの二人きりでいた時間そのものが、嘲られているような気がしてしまうだろう。
「来てもらったのにヒマで悪いね。予報じゃ一応曇りだったんだけど」
がら空きのテーブル席でぼんやりしていた陽太の目の前に大盛りのかき氷が置かれ、真っ赤なシロップと練乳がたっぷり注がれる。
「え、いいの?マスター。オレ、なんにもしてないのに」
「良いに決まってるだろ。こんな雨なのにちゃんと来てくれた、ってだけで十分」
カウンターの奥にある「指定席」に腰掛け、マスターは白いものの交じる髭面をほころばせた。
あの髭が真っ白になったら、日焼けしたサンタクロース、って感じだろうな、とかき氷を口に運びつつ陽太は思った。優しげで頼りがいがありそうで、温かな顔だ。若い頃は最低限の荷物と組み立て式の自転車を担いで世界中を旅していた、と聞いているが、そんなところもサンタクロースを連想させる。
――そうだ、マスターだったら、絵を見ても笑わないかもしれない……きっと色んな人を見てきてるから……
指定席の横にある棚から文庫本を取り出して読み始めようとしたマスターに、陽太はそっと近寄り、言った。
「あの、マスター」
太い眉毛を上げ、少し驚いたような顔つきでマスターは顔を上げた。
「こ、これ……友達が、描いてくれたんですけど……どうかな、って」
恐る恐る差し出したファイルを受け取ると、マスターは軽く息を吐き、真剣な面持ちでスケッチを見つめた。そして、目を画面に向けたままにやりとした。
「いいね、これ。陽太の本質を見てると思う」
本質、と言われて陽太は心臓に触れられたような気持ちになり、落ち着かなくて頭を掻いた。
「そう……かな?オレ、こんな顔する事、あったかな」
「自分じゃそういうのは分からないもんだよ。でも俺は見たことあるな。この陽太」
顔を上げ、マスターは頭を掻いている陽太を見て再びにやりとした。
「描いてもらってどう?」
「ええと。オレ、この線がスゴく好きなんで……。嬉しかったです。スゴく」
「線が好き、ね。なるほど」
そう言われて、陽太は夢中で線を引いている瑞希の面持ちと、描かれる線の中に溶けていくような陶然とした感覚を思い出した。それを眺めていたマスターは、含み笑いをしつつさり気なく言った。
「で、線を描いた人の事も好き、なんだね」
「えっ……そう、かな?……たぶん」
陽太は、なんと答えればいいのかわからず、ただ顔が熱くなってくるのを感じた。そして、最初に描いてもらったあの日、瑞希の熱に浮かされたような表情に思わず口づけてしまった時の感触を思い出した。
「なんていうか、最初はただホントに、線がすごく好きだなって思っただけだったんです。でも、描いてるとこを見てるうちに……もっとこの人を知りたいって思って。どんな気持ちで描いてるのかな、とか」
陽太にスケッチを返し、マスターはしばらく黙って手元の本に目を落としていた。そして、独り言のように一節読み上げた。
「われらふたりの心臓は 競いて最後の熱をへらしつつ、二つの大きな篝火となりて、両面鏡なるふたりの胸に 二重の光を反射せしめん。……そんなカンジだね」
「2つの篝火、か……」
思わず陽太は自分の心臓のあたりに触れ、それから絵を描く瑞希のあの燃えるような目を思い出した。
――瑞希さんの炎を、オレは映してたのかな。だからこんな表情ができたのかも
「ほら、燃える少年。そこで氷が溶けかけてるよ。早く食べな」
「あ!スイマセン!!せっかく出してもらったのに!」
慌てて自分の椅子に戻ってかき氷を掻き込む陽太を、マスターはニヤニヤしながら見た。
「今度、その子を連れてきなよ。なんかサービスするから、って言ってさ」
自分が瑞希に出会った時と、まったく同じことを言うマスターに、陽太はズキズキする額をさすりながら笑い返した。
――暑苦しくてうるさい、のは親譲りか。
そんなことを考えながら一人きりのがらんとした家に戻ると、いつもより余計に寒々しい空間に思える。思わずため息をついたとき、スマートフォンの画面に知らない番号からのショートメールが表示された。
『ハルタ:今日は、ホントありがとうございました!!絵を見せてもらってうれしかったです!あ、あと!また遊びに行ってもいいですか???なんて?!』
感嘆符が多い「うるさい」文面に瑞希は思わず苦笑し、それから、少し前に触れた唇の熱を思い出した。
あの瞬間、自分は描くことに耽溺していた。眼前にある、初めて自分の内面を見つめている少年のほころんだ蕾のような表情を捉えることに夢中だった。風に拭かれた花々が触れ合うように口付けられるまでは。
ほんの一瞬触れられただけだったのに、熱も感触も生々しく残っている。他人ともっと深い関係をもったことなど幾らでもあるのに、どんな行為よりも強く、深く繋がった瞬間だった気がした。
思わず涙が出たのもそのせいだろうか。
――あいつ、あんな表情をするなんて思わなかった
途中まで描いた陽太のスケッチを見返す。描きかけではあるが、遠くから眺めていただけの時よりもずっとはっきりと「陽太自身」を捉えられた気がした。
そして、もう一度間近で見つめて、もっと描きたい、と強く思った。
『mizuki:いいよ。また描かせてほしい』
全国的に梅雨入りしたニュースが報じられ、それから雨の日が続いた。
窓を打つ雨音を聞きながら、陽太は自分を描いている瑞希を見つめた。無駄にしゃべったり動いたりせず、じっと留まってモデルを務めることにはだいぶ慣れてきた。と思った。そして、瑞希に鋭く観察されることにもそれなりに慣れた。
惹かれてやまない線と、それを生み出す目や手に、自分の姿形や内心で渦巻いているもの、が、丁寧にすくい取られて整えられ、新たな形を与えられていく、というのは静かではあるがなんとも言えない高揚感があった。体に触れることも、言葉や視線を交わすことさえもないのに、もっと深い部分で触れ合っているような気がした。
「できた」
ぴしり、と音を立てて鉛筆とスケッチブックをテーブルに置き、瑞希は水から上がった人のように長く息をついた。
陽太は少し俯けていた顔をパッと上げ、見たくて仕方なかった「自分が描かれた絵」を見た。胸の少し下辺りでゆるく手を組み、少し顔を俯け、目を伏せて微笑んでいる少年がそこにいる。無駄のないはっきりした線で描かれているが、その表情のせいか優しい印象を受ける。
――ホントにオレ、こんな顔してるのかな……?
嬉しいような気恥ずかしいような気持ちで陽太は自分の絵をしげしげと眺めた。
――他の人がこれを見たら、オレだって気づくのかな。
そう思うと、自分の周囲の人々に絵を見せたくなった。
「あの……この絵、他の人に見せてもいいですか?家族とか……あ、バイト先の人とか!」
丸くなった鉛筆を削っていた瑞希は、その手を止めずにそっけなく答えた。
「別に良いけど」
完成したものはもう終わったもので、それ以上興味がない、といった風だった。陽太は、前に海のスケッチをもらったときと同じくサインを書いてもらい、大切にそのスケッチを持ち帰った。
数日間、スケッチは陽太のバッグの中にしまわれていた。
忘れていたわけではない。きちんとファイリングし、毎日取り出して眺めてみてはいたものの、それを他人に見せるのはなんだか気が引けた。瑞希の絵を人に見せるのが嫌だったのではなく、描かれているのが自分である、ということが問題だった。それに、自分が絵のモデルを務めていることを知られるのにも抵抗があった。
――笑われるとか、変に思われたら……嫌だな。
絵の中で微笑んでいる自分や、それを描いている瑞希を思い浮かべながら陽太はため息を付いた。そんなことをされたら、あの二人きりでいた時間そのものが、嘲られているような気がしてしまうだろう。
「来てもらったのにヒマで悪いね。予報じゃ一応曇りだったんだけど」
がら空きのテーブル席でぼんやりしていた陽太の目の前に大盛りのかき氷が置かれ、真っ赤なシロップと練乳がたっぷり注がれる。
「え、いいの?マスター。オレ、なんにもしてないのに」
「良いに決まってるだろ。こんな雨なのにちゃんと来てくれた、ってだけで十分」
カウンターの奥にある「指定席」に腰掛け、マスターは白いものの交じる髭面をほころばせた。
あの髭が真っ白になったら、日焼けしたサンタクロース、って感じだろうな、とかき氷を口に運びつつ陽太は思った。優しげで頼りがいがありそうで、温かな顔だ。若い頃は最低限の荷物と組み立て式の自転車を担いで世界中を旅していた、と聞いているが、そんなところもサンタクロースを連想させる。
――そうだ、マスターだったら、絵を見ても笑わないかもしれない……きっと色んな人を見てきてるから……
指定席の横にある棚から文庫本を取り出して読み始めようとしたマスターに、陽太はそっと近寄り、言った。
「あの、マスター」
太い眉毛を上げ、少し驚いたような顔つきでマスターは顔を上げた。
「こ、これ……友達が、描いてくれたんですけど……どうかな、って」
恐る恐る差し出したファイルを受け取ると、マスターは軽く息を吐き、真剣な面持ちでスケッチを見つめた。そして、目を画面に向けたままにやりとした。
「いいね、これ。陽太の本質を見てると思う」
本質、と言われて陽太は心臓に触れられたような気持ちになり、落ち着かなくて頭を掻いた。
「そう……かな?オレ、こんな顔する事、あったかな」
「自分じゃそういうのは分からないもんだよ。でも俺は見たことあるな。この陽太」
顔を上げ、マスターは頭を掻いている陽太を見て再びにやりとした。
「描いてもらってどう?」
「ええと。オレ、この線がスゴく好きなんで……。嬉しかったです。スゴく」
「線が好き、ね。なるほど」
そう言われて、陽太は夢中で線を引いている瑞希の面持ちと、描かれる線の中に溶けていくような陶然とした感覚を思い出した。それを眺めていたマスターは、含み笑いをしつつさり気なく言った。
「で、線を描いた人の事も好き、なんだね」
「えっ……そう、かな?……たぶん」
陽太は、なんと答えればいいのかわからず、ただ顔が熱くなってくるのを感じた。そして、最初に描いてもらったあの日、瑞希の熱に浮かされたような表情に思わず口づけてしまった時の感触を思い出した。
「なんていうか、最初はただホントに、線がすごく好きだなって思っただけだったんです。でも、描いてるとこを見てるうちに……もっとこの人を知りたいって思って。どんな気持ちで描いてるのかな、とか」
陽太にスケッチを返し、マスターはしばらく黙って手元の本に目を落としていた。そして、独り言のように一節読み上げた。
「われらふたりの心臓は 競いて最後の熱をへらしつつ、二つの大きな篝火となりて、両面鏡なるふたりの胸に 二重の光を反射せしめん。……そんなカンジだね」
「2つの篝火、か……」
思わず陽太は自分の心臓のあたりに触れ、それから絵を描く瑞希のあの燃えるような目を思い出した。
――瑞希さんの炎を、オレは映してたのかな。だからこんな表情ができたのかも
「ほら、燃える少年。そこで氷が溶けかけてるよ。早く食べな」
「あ!スイマセン!!せっかく出してもらったのに!」
慌てて自分の椅子に戻ってかき氷を掻き込む陽太を、マスターはニヤニヤしながら見た。
「今度、その子を連れてきなよ。なんかサービスするから、って言ってさ」
自分が瑞希に出会った時と、まったく同じことを言うマスターに、陽太はズキズキする額をさすりながら笑い返した。