7.海の家



2025-07-25 17:58:50
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まるで水の中にいるような湿った空気の重たさを感じつつ、瑞希は自宅と職場以外の場所にいくのは久しぶりだと思った。足元の砂浜は黒っぽく湿っていて、先を行く陽太の足跡がまっすぐ海の家に続いている。不安定な曇天の下でうねる海からは、海鳴りがごうごうと聞こえてくる。
――こんな天気でも営業してるのか、この店は
 白くペンキが塗られたドアは開けられたままで、半分テラスになっている店内やカウンターの奥までが外から見える。カウンターの奥には、ふさふさした灰色の髪と髭の大柄な男がいる。きっとあれが陽太のいう「マスター」なのだろう。
「おう、陽太。それに……」
「瑞希さん、だよ。瑞希さん、この人がここのマスター。つまりオレのボス」
 陽太に紹介されながら店内に入ると、マスターは立ち上がって日焼けした顔で笑った。人好きのする笑み、というのはこういう顔のことを言うのだろう。と思いつつ、瑞希は小さく頭を下げた。
 示されたカウンターの前のスツールに腰を下ろすと、すぐに冷えたラムネが出される。
「これは俺からのサービス。で、こっちは陽太から」
 続けて、アイスクリームの乗ったイチゴのかき氷が出される。
「えー、勝手に決めないでよマスター」
「自分で言ってただろ、瑞希さんが来たらオレがあれもこれもおごるんだ、とかなんとか」
 傍らに腰を下ろしつつ文句を言う陽太と、ニヤニヤしているマスターのやり取りに瑞希は思わず笑って、かき氷を陽太の方に押しやった。
「俺、こんなに冷たいのばっかり食べられないから。自分で食べな」
「ええっ、そんなこと言わないで!おごらせてください!!」
 陽太も瑞希の方にかき氷を押しやる。と、2本のスプーンがかき氷の両脇に差し込まれた。
「ほら。仲良く分け合って食べな」
「おお!ありがとうございます!!さすがマスター!」
 さっそくかき氷を食べ始める陽太を苦笑しながら瑞希は眺め、一口ずつ氷をすくって口に運んだ。舌先ですぐに氷の粒が解けていき、透き通った甘く冷たい味が口腔を満たす。おもちゃのようにちゃちなイチゴの匂いがする。
「オレ、やっぱりカキ氷はイチゴが一番スキなんですよね〜。メロンもスキだけど」
 ザクザクと氷を崩して口に運ぶ陽太をながめつつ、瑞希はラムネの栓をぽんと押し込んだ。
「そう、なら残りはあげるよ。俺はラムネもあるし」
「いいんですか、なんかスイマセン」
 ふと、お祭りや花火大会で、きまってイチゴのかき氷を欲しがっていた妹のことを思い出した。だからなのかずっと、この人工的な甘さとイチゴの匂いは妹のそのもののような気がしていた。
 けれど、今それが陽太に置き換わろうとしている気がする。
「瑞希さんありがとう!器下げてくるね」
 あっという間に食べ終えた陽太は器を手に席を立った。カウンターの端でシロップを追加していたマスターは、慌ただしく厨房へ入っていく陽太を所在なさげな顔で見ている瑞希に笑いかけた。
「まったく、そんなのあとでいいのに。なあ?」
「じっとしてられないタイプなんだ、って自分で言ってました。ハスキー犬みたい、と言われる、とか」
「ハスキー犬!たしかに、にぎやかで暑苦しいところがそっくりだ!」
 明るい声で笑ったマスターにつられて瑞希も笑った。ひとしきり笑ったあと、マスターは定位置に腰を下ろしてぽつりと言った。
「だけど、そうでないところを選んでキミは描いたんだね」
「……俺の絵、見たんですか?」
 マスターから目をそらし、手元のラムネのビー玉を見つめつつ瑞希は言った。
「陽太が見せてくれたんだよ。手の中の宝物を打ち明ける子供みたいな目でね。線がすごく好きだ、って言ってたよ」
 陽太本人からも聞かされた事だったが、改めて他人から告げられるとそれが本当のことなんだという実感がわいた。
 胸のうちがじん、と熱くなる。
「いい意味で子どもっぽいっていうか、素直でいいやつだよ、あいつ」
 しみじみした口調でマスターが呟く。
「わかります。本人はそういうところ、ちょっと気にしてるみたいですけど」
「へえ、一応自覚はあるのかぁ……ああ、君と知り合ってから成長したのかもしれないね」
 自分の存在が、陽太にそんな影響を及ぼしているのだろうか?と瑞希は思った。そして、それが少しうれしくなり、また怖いような気がした。
――「日向」で生きてるあいつに、俺なんかが影を落として良いんだろうか……?
 手の中のラムネのビー玉が、陽太の魂のような、あるいは自分の中にある、彼には見せていない影のような、そんな気がした。