明るい空から雨が降り続いている。白い雨だ。
――たしか、もうすぐ昼と夜が同じ長さになるんだっけ
まだ明るい空の下、職場を出て家へ向かいながら瑞希はふとそんなことを思った。昼と夜が同じ長さに鳴る夏至が終わったらいよいよ夏がくる。そうしたら、また自分は海辺へ行って絵を描くのだろうか。夏のまばゆい日差しの下で、目にしみるくらいきらめく海と、そしてそれを従えた陽太――きっと、太陽や夏そのものみたいに見えるだろう。
当たり前のように、また陽太を描きたいと思っている自分に気づいて瑞希は少し切なくなった。
――あいつ、いつまで俺の側にいてくれるのかな
いわゆる社会のレールを踏み外して、生活に追われて単調な日々を送っている自分と違って陽太は、温かい家庭で育ち、健康な体を持ち、仲間と楽しい学生生活を送る、という「正規のルート」を歩んでいる最中である。いずれ、目まぐるしく輝かしい生活――進学や就職や、新しい人間関係、といった――にかまけてこちらのことなど忘れてしまうのかもしれない。そんなことまで考える。
そうすると、いつも胸の底でくすぶっている虚無がどうしようもなく沸き上がってきて、飲み込まれそうになる。
家の最寄りのコンビニを通り過ぎた時、ふと視線を感じて瑞希は店内へ目をやった。一瞬、猪谷の姿を見た気がした。ここのところ彼からの連絡はないし、今まで家の近くで見かけたこともない。たしか住まいは隣の市のはずだ。まさか、と思いつつ、足を早める。
ようやくつけられているのに気づいたのは、家があるアパートの狭い階段を登った後だった。階下から、不遜な笑みを浮かべてこちらを見上げている猪谷を、瑞希は虚ろに見つめた。
「仕事であの工場の近くに来たんで、もしかしたら、と思ってたらちょうどよく見かけてね……ちょっと驚かせたくてさ」
階段を軋ませながら登ってきた猪谷は、親しげに言って瑞希の肩に重たい手を置いた。
「それに、しばらく会ってなくて欲求不満なんだよ」
こちらの体内に植え付けた、被虐の快感を引き出そうとするかのように、太い指が肩に指を食い込ませ鎖骨をきつくなぞる。
同時に、胸を満たしつつあった虚無が溢れだして、何かが弾けるような感じがした。瑞希は肩に置かれた手をとると、そのまま自分の家へ猪谷を招き入れた。
部屋に上がると、灯りをつけるまもなく熱い体が迫ってきて玄関のすぐ横の壁に押し付けられた。ざらついた唇が頬をなぞり、耳朶に噛みつく。鋭い痛みに呻くと、噛まれた熱でしびれた耳朶を粘つく舌が舐めあげてくる。
嫌悪感と快感が同時に背骨を這い上がり、全身の肌があわだつ。太い指が反対側の耳を弄び、喉元に滑っていく。
「や……やめろ……こんなとこで」
頬に汗ばんだ額がこすりつけられ、喉にかけられた手が徐々に重みを増していく。
「欲求不満だって言っただろ。すぐにでも聞きたいんだよ、オマエの喘ぎ声をさ」
ふいにぐいと喉を締める手の重みが増し、反射的に瑞希は喉元にかけられた手を掴んだ。視界で無数の光がまたたき、一瞬意識が途切れかける。と、手がゆるめられ、必死で息を吸う。
――こいつの手に、俺の命が握られてる……
再び増してくる手の重みにそんなことを考える。先よりゆっくりと息が苦しくなる。その感覚に、いつまでも続くかのような自分の色褪せた毎日のことをなんとなく重ね合わせる。
そして、いつか居なくなってしまうかもしれない陽太のことを。
視界が次第に霞み始める。
「こ……このまま……ころして……」
薄れる意識のなか、思わずそんな言葉が出た。その一瞬、猪谷の呼吸が乱れた気がした。
「こ、ろ、し、てくれ……」
絞り出すように懇願すると、締め上げていた手が離れた。息を吸い込みながら瑞希は猪谷にすがりついて、血走っている目を見つめた。
「な、なんだよ、オマエ……なんか変だぞ」
半ば正気をなくした、光のない暗く大きな目に間近で見据えられ、猪谷はゾッとした様子で体を離した。
「ねえ、殺したいんだろ、俺を。だから……」
猪谷は掠れた声で懇願しつつ尚もすがろうとする瑞希をふりほどき、力任せに殴りつけた。鋭い痛みと衝撃によろけ、瑞希はずるずると壁に持たれたまま崩れ落ちた。
舌打ちし、呪詛の言葉を吐きながら出ていく猪谷の影がドアの向こうに消え、慌ただしく足音が遠ざかっていく。
あんな獣のような男にも見捨てられた、と思うとひどい虚無感が襲ってくる。涙さえ出てこない。
昼でもなく夜でもない時間の青色を帯びた闇に包まれて目を瞑った。ぼたぼたと響く雨音と、湿った空気にいっそ溶けて消えてしまいたかった。
託された四角い木箱は、今まで嗅いだことのない匂いがする。
――マスターも絵を描く人だったなんてなぁ。
陽太は頑張ってマスターの若い頃を想像しようとしたが、どうしても今の髭面ばかり浮かんでできそうになかった。
マスターが埃をかぶった木の箱を持ってきたのは、瑞希を店に連れて行ってから数日後のことだった。
「これ、昔使っていたやつなんだけど、まだ使えるみたいだから……瑞希君にどうかと思ってさ」
丁番を軋ませながら開かれた箱の中には、見慣れない言葉のラベルが貼られた絵の具のチューブや絵筆、くすんだ金属製のパレットなどが入っていた。
「メジャーなメーカーのやつじゃないけど、すごく良い色なんだよ。これ。試しに使ってみて、嫌なら返してくれてもいい、って伝えてくれよ」
ねじまがったり半ばつぶれたりしている絵の具のチューブを陽太は手に取った。蓋の縁についてる絵の具のかけらが人差し指にこびりつく。
思わず陽太は指をこすった。同時に、目を焼くほど鮮やかな空色が指先を彩る。汚れた蓋とねじれたチューブからは想像もつかない鮮やかさだ。
「こんなきれいな絵の具、初めて見たかも」
「真っ白な紙の上だと、もっとすごいぞ」
息を詰めて指先を見つめる陽太にマスターは秘密めいた声で囁いた。
「そうなんだ!やってみてよ、マスター」
「そうだな……いや、それはあの子に任せようかな」
マスターと顔を見合わせて陽太はにやりとした。
アパートの階段を昇りながら、陽太は前に見せてもらった絵のなかにいくつか少しだけ色をつけたものがあったのを思い出していた。まるで空気か日の光のような淡く彩られた絵だったが、それが、腕の中にある絵の具のような鮮やかな色彩に取って代わったとしたら、一体どんな風になるんだろう?と考えるだけで胸が高鳴る。
階段を昇りきったところで、奥からよろめくように走ってきた男とぶつかりそうになった。髪も服もどこか乱れていて、顔色も悪いような気がする。男はちらりと陽太を見た。血走った目にはなぜか怯えた光があった。
――なんだろう……なんかあったのかな……?
通路の奥が瑞希の家である。なんとなく不安を感じつつ、陽太はドアをノックした。
息せき切るようなノックの音と、自分を呼ぶ声が聞こえる。
瑞希は薄く目を開けたが、返事をする気力がなかった。幾度か同じ音が聞こえ、ぱっと目の前が明るくなる。
「瑞希さん!」
熱気と温かな声が頭上から降ってくる。目を上げると、古ぼけた木箱を抱えた陽太が、怯えたような驚いたような顔でこちらを見下ろしていた。
「な……何があったんですか?」
音を立てて箱を傍らに置き、陽太は瑞希の傍らに膝をついた。大きく見開かれた目がせわしなくこちらを観察しているのがわかる。
「なんでもない。大丈夫」
独り言のように瑞希は呟いた。陽太は小さく息を付き、いつになく真剣な口調で言った。
「床に伸びてる時点で全然大丈夫じゃないです!頭とか打ってないですか?」
返事を待つまもなく陽太は瑞希を抱き起こすと、半ばかかえるようにして部屋の奥のソファへ運んだ。自分の肩を支える陽太の強い腕にもたれながら、瑞希は内心できつく結ばれていた緊張の糸が解けていくのを感じた。
「顔、腫れちゃってますね。なんか冷やすもの持ってきます」
言い終わるまもなく陽太はキッチンへ引き返した。せわしなく冷蔵庫を開ける音、氷を取り出す音が聞こえる。
ほどなくして、陽太は濡らしたタオルと氷水の入ったビニール袋を手に戻ってきて、ソファに身を預けている瑞希の前にひざまずくと頬へそれを押し当てた。
「しばらく当てておいてください。他に痛むとこ、ないですか?」
額に張り付いていた髪が優しく撫でつけられる。瑞希は黙ったまま陽太を見つめた。
真っ直ぐに注がれている真摯で優しげな眼差しに、胸のうちで温かなものが湧いてくる。頬に添えられた手に手を重ねてみると、その熱さと力強さに心が震えた。
「ごめん、心配かけて」
考えるまもなく言葉がこぼれた。
陽太は大きく瞬き、声を震わせた。
「なんで瑞希さんが謝るんですか。こんな、ひどいことされたのに」
喉についた指の跡に視線が注がれる。
「あの、階段のとこにいたやつに襲われたんですね?強盗とか空き巣とか?」
「いや違う、そういうのじゃない」
怒りを燃やそうとしている陽太をなだめるように、瑞希は静かに言った。
「一人ぼっちの馬鹿な子供が、見せかけの優しさとか金とかに釣られて、大人に身も心も食われる、ってよく聞く話だろ。その「子供」の、成れの果てが俺だよ」
陽太は戸惑った様子でこちらを見つめた。無垢な澄んだ色の目が潤んで光っている。何か言おうとしてとどまっている唇がかすかに震えている。
「あいつとはもう2年くらいかな……最初はただ優しくしてくれる人だと思ってた。でもいつのまにかおもちゃになってた。あいつ、俺が苦しむほど悦ぶんだ。特に、首絞めながらヤるのが大好きでね。何度か本当に死にそうになった」
一息に言い切って、瑞希は言葉が紡がれるのを待った。
けれど、言葉は返ってこなかった。
変わりに、頬に当てられていた氷が滑り落ち、温かな強い手でぐいと抱き寄せられた。そのまま、苦しくなるほどきつく抱きしめられる。
「そんなのダメだよ、そんな、死ぬようなことするなんて」
――ああ、こいつらしいやり方だな
瑞希はそう思いつつ、がっしりした肩に身を預けた。いずれ離れていってしまうのだとしても、この瞬間は自分だけのものだ、と思った。
「もうそんなこと、しないでください。オレが一緒にいるから」
陽太は震えた声で囁いた。笑えるくらい無邪気な言葉だ。今まで身近な大人や「お客」たちから聞かされてきた、いくつもの「温かい言葉」が蘇ってくる。
――言うだけなら何だって言えるもんな、誰だって
「……今はそうだけど、来年、再来年はどうだかわからないだろ。進学とか、就職とかさ」
そっけなく答えると、陽太は激しく首を振り、髪や背中を荒く愛撫しつつ尚も体を寄せてきた。勢いに負けてソファに折り重なるように倒れる。重なった互いの胸の鼓動を感じる。
「約束する。ずっと一緒にいるって。だから」
汗ばんだ手が両頬を包み込み、鼻先が触れるほどの距離からまっすぐ見つめられる。痛いくらい真剣な目が、水面のようにゆらぎ、光っている。
「死ぬようなこと、しないで。ずっと一緒にいて。お願い……」
言葉が掠れて消えるのと同時に温かな雫が頬に滴り落ちた。いつも子どものように笑っている大きな唇が歪み、嗚咽がこぼれる。
こんなに近くで誰かが涙するのを見るのは初めてだった。
それも、疑ってばかりいる自分のために。
そう思うと、再び喉元にどっとと熱いものが込み上げてくるのを感じた。ずっと内心でくすぶっていた虚無が、体を包んでいる熱に溶けていく。
「わかった。ずっと一緒だ」
涙声になるのをこらえつつ答えると、陽太は泣きながら笑った。名前の通り、太陽のような笑顔だった。釣られて笑うといつかと同じように唇に唇がそっと触れ、再び深く抱きしめられた。
こちらの存在を確かめるかのような仕草を愛おしく感じながら、瑞希は大きな背中を抱きしめて目を瞑った。それから、雨音が途切れはじめ、やがて静かになるまでそのままでいた。
――たしか、もうすぐ昼と夜が同じ長さになるんだっけ
まだ明るい空の下、職場を出て家へ向かいながら瑞希はふとそんなことを思った。昼と夜が同じ長さに鳴る夏至が終わったらいよいよ夏がくる。そうしたら、また自分は海辺へ行って絵を描くのだろうか。夏のまばゆい日差しの下で、目にしみるくらいきらめく海と、そしてそれを従えた陽太――きっと、太陽や夏そのものみたいに見えるだろう。
当たり前のように、また陽太を描きたいと思っている自分に気づいて瑞希は少し切なくなった。
――あいつ、いつまで俺の側にいてくれるのかな
いわゆる社会のレールを踏み外して、生活に追われて単調な日々を送っている自分と違って陽太は、温かい家庭で育ち、健康な体を持ち、仲間と楽しい学生生活を送る、という「正規のルート」を歩んでいる最中である。いずれ、目まぐるしく輝かしい生活――進学や就職や、新しい人間関係、といった――にかまけてこちらのことなど忘れてしまうのかもしれない。そんなことまで考える。
そうすると、いつも胸の底でくすぶっている虚無がどうしようもなく沸き上がってきて、飲み込まれそうになる。
家の最寄りのコンビニを通り過ぎた時、ふと視線を感じて瑞希は店内へ目をやった。一瞬、猪谷の姿を見た気がした。ここのところ彼からの連絡はないし、今まで家の近くで見かけたこともない。たしか住まいは隣の市のはずだ。まさか、と思いつつ、足を早める。
ようやくつけられているのに気づいたのは、家があるアパートの狭い階段を登った後だった。階下から、不遜な笑みを浮かべてこちらを見上げている猪谷を、瑞希は虚ろに見つめた。
「仕事であの工場の近くに来たんで、もしかしたら、と思ってたらちょうどよく見かけてね……ちょっと驚かせたくてさ」
階段を軋ませながら登ってきた猪谷は、親しげに言って瑞希の肩に重たい手を置いた。
「それに、しばらく会ってなくて欲求不満なんだよ」
こちらの体内に植え付けた、被虐の快感を引き出そうとするかのように、太い指が肩に指を食い込ませ鎖骨をきつくなぞる。
同時に、胸を満たしつつあった虚無が溢れだして、何かが弾けるような感じがした。瑞希は肩に置かれた手をとると、そのまま自分の家へ猪谷を招き入れた。
部屋に上がると、灯りをつけるまもなく熱い体が迫ってきて玄関のすぐ横の壁に押し付けられた。ざらついた唇が頬をなぞり、耳朶に噛みつく。鋭い痛みに呻くと、噛まれた熱でしびれた耳朶を粘つく舌が舐めあげてくる。
嫌悪感と快感が同時に背骨を這い上がり、全身の肌があわだつ。太い指が反対側の耳を弄び、喉元に滑っていく。
「や……やめろ……こんなとこで」
頬に汗ばんだ額がこすりつけられ、喉にかけられた手が徐々に重みを増していく。
「欲求不満だって言っただろ。すぐにでも聞きたいんだよ、オマエの喘ぎ声をさ」
ふいにぐいと喉を締める手の重みが増し、反射的に瑞希は喉元にかけられた手を掴んだ。視界で無数の光がまたたき、一瞬意識が途切れかける。と、手がゆるめられ、必死で息を吸う。
――こいつの手に、俺の命が握られてる……
再び増してくる手の重みにそんなことを考える。先よりゆっくりと息が苦しくなる。その感覚に、いつまでも続くかのような自分の色褪せた毎日のことをなんとなく重ね合わせる。
そして、いつか居なくなってしまうかもしれない陽太のことを。
視界が次第に霞み始める。
「こ……このまま……ころして……」
薄れる意識のなか、思わずそんな言葉が出た。その一瞬、猪谷の呼吸が乱れた気がした。
「こ、ろ、し、てくれ……」
絞り出すように懇願すると、締め上げていた手が離れた。息を吸い込みながら瑞希は猪谷にすがりついて、血走っている目を見つめた。
「な、なんだよ、オマエ……なんか変だぞ」
半ば正気をなくした、光のない暗く大きな目に間近で見据えられ、猪谷はゾッとした様子で体を離した。
「ねえ、殺したいんだろ、俺を。だから……」
猪谷は掠れた声で懇願しつつ尚もすがろうとする瑞希をふりほどき、力任せに殴りつけた。鋭い痛みと衝撃によろけ、瑞希はずるずると壁に持たれたまま崩れ落ちた。
舌打ちし、呪詛の言葉を吐きながら出ていく猪谷の影がドアの向こうに消え、慌ただしく足音が遠ざかっていく。
あんな獣のような男にも見捨てられた、と思うとひどい虚無感が襲ってくる。涙さえ出てこない。
昼でもなく夜でもない時間の青色を帯びた闇に包まれて目を瞑った。ぼたぼたと響く雨音と、湿った空気にいっそ溶けて消えてしまいたかった。
託された四角い木箱は、今まで嗅いだことのない匂いがする。
――マスターも絵を描く人だったなんてなぁ。
陽太は頑張ってマスターの若い頃を想像しようとしたが、どうしても今の髭面ばかり浮かんでできそうになかった。
マスターが埃をかぶった木の箱を持ってきたのは、瑞希を店に連れて行ってから数日後のことだった。
「これ、昔使っていたやつなんだけど、まだ使えるみたいだから……瑞希君にどうかと思ってさ」
丁番を軋ませながら開かれた箱の中には、見慣れない言葉のラベルが貼られた絵の具のチューブや絵筆、くすんだ金属製のパレットなどが入っていた。
「メジャーなメーカーのやつじゃないけど、すごく良い色なんだよ。これ。試しに使ってみて、嫌なら返してくれてもいい、って伝えてくれよ」
ねじまがったり半ばつぶれたりしている絵の具のチューブを陽太は手に取った。蓋の縁についてる絵の具のかけらが人差し指にこびりつく。
思わず陽太は指をこすった。同時に、目を焼くほど鮮やかな空色が指先を彩る。汚れた蓋とねじれたチューブからは想像もつかない鮮やかさだ。
「こんなきれいな絵の具、初めて見たかも」
「真っ白な紙の上だと、もっとすごいぞ」
息を詰めて指先を見つめる陽太にマスターは秘密めいた声で囁いた。
「そうなんだ!やってみてよ、マスター」
「そうだな……いや、それはあの子に任せようかな」
マスターと顔を見合わせて陽太はにやりとした。
アパートの階段を昇りながら、陽太は前に見せてもらった絵のなかにいくつか少しだけ色をつけたものがあったのを思い出していた。まるで空気か日の光のような淡く彩られた絵だったが、それが、腕の中にある絵の具のような鮮やかな色彩に取って代わったとしたら、一体どんな風になるんだろう?と考えるだけで胸が高鳴る。
階段を昇りきったところで、奥からよろめくように走ってきた男とぶつかりそうになった。髪も服もどこか乱れていて、顔色も悪いような気がする。男はちらりと陽太を見た。血走った目にはなぜか怯えた光があった。
――なんだろう……なんかあったのかな……?
通路の奥が瑞希の家である。なんとなく不安を感じつつ、陽太はドアをノックした。
息せき切るようなノックの音と、自分を呼ぶ声が聞こえる。
瑞希は薄く目を開けたが、返事をする気力がなかった。幾度か同じ音が聞こえ、ぱっと目の前が明るくなる。
「瑞希さん!」
熱気と温かな声が頭上から降ってくる。目を上げると、古ぼけた木箱を抱えた陽太が、怯えたような驚いたような顔でこちらを見下ろしていた。
「な……何があったんですか?」
音を立てて箱を傍らに置き、陽太は瑞希の傍らに膝をついた。大きく見開かれた目がせわしなくこちらを観察しているのがわかる。
「なんでもない。大丈夫」
独り言のように瑞希は呟いた。陽太は小さく息を付き、いつになく真剣な口調で言った。
「床に伸びてる時点で全然大丈夫じゃないです!頭とか打ってないですか?」
返事を待つまもなく陽太は瑞希を抱き起こすと、半ばかかえるようにして部屋の奥のソファへ運んだ。自分の肩を支える陽太の強い腕にもたれながら、瑞希は内心できつく結ばれていた緊張の糸が解けていくのを感じた。
「顔、腫れちゃってますね。なんか冷やすもの持ってきます」
言い終わるまもなく陽太はキッチンへ引き返した。せわしなく冷蔵庫を開ける音、氷を取り出す音が聞こえる。
ほどなくして、陽太は濡らしたタオルと氷水の入ったビニール袋を手に戻ってきて、ソファに身を預けている瑞希の前にひざまずくと頬へそれを押し当てた。
「しばらく当てておいてください。他に痛むとこ、ないですか?」
額に張り付いていた髪が優しく撫でつけられる。瑞希は黙ったまま陽太を見つめた。
真っ直ぐに注がれている真摯で優しげな眼差しに、胸のうちで温かなものが湧いてくる。頬に添えられた手に手を重ねてみると、その熱さと力強さに心が震えた。
「ごめん、心配かけて」
考えるまもなく言葉がこぼれた。
陽太は大きく瞬き、声を震わせた。
「なんで瑞希さんが謝るんですか。こんな、ひどいことされたのに」
喉についた指の跡に視線が注がれる。
「あの、階段のとこにいたやつに襲われたんですね?強盗とか空き巣とか?」
「いや違う、そういうのじゃない」
怒りを燃やそうとしている陽太をなだめるように、瑞希は静かに言った。
「一人ぼっちの馬鹿な子供が、見せかけの優しさとか金とかに釣られて、大人に身も心も食われる、ってよく聞く話だろ。その「子供」の、成れの果てが俺だよ」
陽太は戸惑った様子でこちらを見つめた。無垢な澄んだ色の目が潤んで光っている。何か言おうとしてとどまっている唇がかすかに震えている。
「あいつとはもう2年くらいかな……最初はただ優しくしてくれる人だと思ってた。でもいつのまにかおもちゃになってた。あいつ、俺が苦しむほど悦ぶんだ。特に、首絞めながらヤるのが大好きでね。何度か本当に死にそうになった」
一息に言い切って、瑞希は言葉が紡がれるのを待った。
けれど、言葉は返ってこなかった。
変わりに、頬に当てられていた氷が滑り落ち、温かな強い手でぐいと抱き寄せられた。そのまま、苦しくなるほどきつく抱きしめられる。
「そんなのダメだよ、そんな、死ぬようなことするなんて」
――ああ、こいつらしいやり方だな
瑞希はそう思いつつ、がっしりした肩に身を預けた。いずれ離れていってしまうのだとしても、この瞬間は自分だけのものだ、と思った。
「もうそんなこと、しないでください。オレが一緒にいるから」
陽太は震えた声で囁いた。笑えるくらい無邪気な言葉だ。今まで身近な大人や「お客」たちから聞かされてきた、いくつもの「温かい言葉」が蘇ってくる。
――言うだけなら何だって言えるもんな、誰だって
「……今はそうだけど、来年、再来年はどうだかわからないだろ。進学とか、就職とかさ」
そっけなく答えると、陽太は激しく首を振り、髪や背中を荒く愛撫しつつ尚も体を寄せてきた。勢いに負けてソファに折り重なるように倒れる。重なった互いの胸の鼓動を感じる。
「約束する。ずっと一緒にいるって。だから」
汗ばんだ手が両頬を包み込み、鼻先が触れるほどの距離からまっすぐ見つめられる。痛いくらい真剣な目が、水面のようにゆらぎ、光っている。
「死ぬようなこと、しないで。ずっと一緒にいて。お願い……」
言葉が掠れて消えるのと同時に温かな雫が頬に滴り落ちた。いつも子どものように笑っている大きな唇が歪み、嗚咽がこぼれる。
こんなに近くで誰かが涙するのを見るのは初めてだった。
それも、疑ってばかりいる自分のために。
そう思うと、再び喉元にどっとと熱いものが込み上げてくるのを感じた。ずっと内心でくすぶっていた虚無が、体を包んでいる熱に溶けていく。
「わかった。ずっと一緒だ」
涙声になるのをこらえつつ答えると、陽太は泣きながら笑った。名前の通り、太陽のような笑顔だった。釣られて笑うといつかと同じように唇に唇がそっと触れ、再び深く抱きしめられた。
こちらの存在を確かめるかのような仕草を愛おしく感じながら、瑞希は大きな背中を抱きしめて目を瞑った。それから、雨音が途切れはじめ、やがて静かになるまでそのままでいた。