あの男に「描いてくれ」と言われて以来、絵が描けなくなった。
何気なく線を引くたび、彼の下卑た笑いを思い出してしまう。そして、誰からも見捨てられて孤独で、他者とつながりたいがために肉体を差し出しさえする、醜い自分の本性がそこに滲んでいる気がして怖かった。
そんな状態が続き、仕事がいそがしかったのもあって瑞希は海から遠ざかっていた。
どれだけ自分が「単調な日々」を送っているとしても、季節は確実に変化していく。
ある日、汗ばむほどの晴天が続いていたのに油断してひどい夕立に降られてしまった。服も荷物もずぶ濡れになったが、幸い厚手のバッグを使っていたので中身は少し湿った程度で済んだ。
中の財布や手帳を別のバッグに入れ替えていると、底の方から紙片が一枚転がり出た。深い青色のカードだ。なんだったろうかと思いつつ手に取る。
波かウロコのような模様と「海の家:インジゴ」という店名が書かれたカードだった。
そんな事があったからか、仕事を終えて帰る途中、無意識のうちに海へ向かっていた。浜辺へ続く階段を降りた時、ようやくそれに気づいて苦笑した。
――疲れてるな、俺……何やってるんだか。
日が暮れたばかりで、海も空も、空気さえも金色に輝いている浜辺は、空虚で醜い自分がいてはいけない場所のように思えた。
ため息をついて引き返そうとした時、誰かが走ってきて避けるまもなく体ごとぶつかってきた。汗ばんだ強い腕がぎゅっと抱きしめてくる。
「せの・みずきさん!また会えるって、信じてた!!」
ばしばしと背中を叩かれる。躍動する体の熱と叩かれた熱とが体中に広がる。思わず瑞希は呻いたが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「オレ、毎日走ってずっと探してたんです」
「……そう……大変、だったな」
絡んでくる腕をなんとか引きはがしていうと、陽太は照れくさそうに笑った。
「あ……ごめんなさい。オレ、よく言われるんですよね。距離感近すぎとか、暑苦しい、とか、あとはシベハス男、とか」
「シベハス男?」
思わず吹き出しながら聞き返す。陽太は汗塗れでもつれた髪を雑に撫でつけながら答えた。
「シベリアンハスキーって犬、見た目はシュッとしてるけど性格は「暑苦しい」とかで、なんか似てるよね、って友達に言われて。あ、あと走るの好きだからかな」
話しながら、陽太は階段に腰を下ろした。つられて瑞希も隣に座った。走ってきたばかり手まだ火照っている陽太の体温を近くで感じていると、体内の虚ろな部分が満たされていくような感じがした。
「瑞希さん、忙しかったんですか?……なんか疲れてるみたい」
現状を見透かしたような問いに瑞希は一瞬どきりとしたが、それをさとられないように何気ない風に答えた。
「まあね。今の時期は……仕事がちょっと忙しいから」
「そうなんだ。仕事、なんの仕事なんですか?やっぱり絵を描く仕事?」
「缶詰工場。港のそばにあるだろ」
陽太は一瞬場所を思い出そうと考え込み、それからぱっと顔を輝かせ、
「ああ、あの工場!小学生の時に社会科見学で行ったことがあります!そっか、だから魚の匂いがしたんだ」
ふと、自分を抱きしめて魚臭い、と吐き捨てた、猪谷のことが蘇る。再び瑞希は居た堪れない気持ちになったが、それを押し殺して聞いた。
「そんなに俺、臭いか?」
「そこまでもないけど……さっきこう、ぎゅっとしたとき……」
陽太は少し恥ずかしげに俯いた。幼さの残る、日焼けした丸い頬にほんのり血の気がのぼっている。
「あの……「にんぎょひめ」って童話がありますよね。子どものころ、人魚は半分魚だから、にんぎょひめはきっと魚の匂いがするんだろうな……って思ってて」
ついさっきまでの快活な口調とは違う、囁くような声で陽太は言った。声変わりをようやく終えた、といった感じの柔らかくひずんだ声が心地よく耳に響く。
「瑞希さんの匂いを嗅いで、なんかそれを思い出したんです……もしかしたら、そのうち泡になって消えてしまうのかな、とか」
傍らの体温と息づかいを感じながら、瑞希は陽太が探るように言葉を紡いでいるのをいじらしく思った。そして、風に吹かれてふわふわと額を漂う癖毛や、そっと摘んだように少しだけ上向きな鼻、微かに震えている、大きくて柔らかそうな唇に触れてみたくなった。
「消えないよ。俺は人間だから」
うつむき加減のまま、陽太はふふふ、と笑いを零した。かすかに緑がかった淡い茶色の目が上目遣いにじっとこちらを見つめる。
初めて会ったときも、この無垢な淡い色の目に見つめられて胸の底がざわつくような感覚を覚えた。再びそれが、初めよりも大きな波濤のように押し寄せてくる。
――いや、だめだ。こいつは俺の事は何も知らない……
焦がれそうな自分の心を殺して瑞希は顔を背け、足元の翳りに目を落とした。陽太に初めて会った日、その眩しさに惹かれながら、数時間後には猪谷の手に身を委ねていた。自分のその「影」を陽太は想像することもできないだろう。
と、同時に勢いよく、温かな重たい体が肩へもたれかかってくる。突然のことで瑞希はよろけ、なんとか手をついて支えた。
「なんだよ、いきなり」
陽太は瑞希の肩へ頰を擦り付けて無邪気に笑った。
「ずっと人間でいて、近くに居て欲しいです。瑞希さん」
存在を確かめようとするように、陽太の大きな手が背中を撫で、肩を抱きしめる。
「さっきから変な事ばっかり言ってすいません。こんな話、誰かにしたことなかったけど……あなたになら話せる気がして」
陽太はもたれた肩からうなじへかけて顔を埋め、満足気に息を吐いた。柔らかい吐息がくすぐったくて、瑞希はますます俯き身をこわばらせた。こんな風に寄り添われたら、意に反して密かに高鳴っている鼓動も、何もかも聞かれてしまいそうだ。
「暑苦しい。離れろよ」
「あ……すいません!!で、今日も絵を描きにきたんですよね?」
もたれかかった時と同じ勢いで陽太は身を離して聞いた。瑞希は俯いたままそっけなく答えた。
「今日は、描かない」
描けない、とは言いたくなかった。
陽太が一瞬顔を曇らせ何か言おうとした時、大粒の雨がぽたり、と足元の砂へ落ちた。ちょうどよかった、と思いつつ瑞希は立ち上がった。
「ほら、おまえも帰らないとだろ」
「はぁ……でもオレ、何も持ってきて無くて」
「え?」
「雨なんか降らないと思ってたし……スマホは忘れてきちゃったし」
途方にくれたような顔で陽太も立ち上がった。音を立てて雨だれが砂へ丸い模様を刻み、遠く雷さえ聞こえ始める。
「雷がこっちに来る前に帰れれば平気かな?じゃあ」
走り始めようとした陽太の腕を瑞希はぐいとつかんだ。
「平気じゃない、危ないだろ?こんな何にもないところで雷が落ちたらどうする」
「え、でも……」
不意に腕をつかまれて強い口調で言われ、陽太はひどく戸惑っている様子だった。瑞希は思わず取った自分の行動に少し後悔したが、取ってしまった以上は仕方ないと思った。
「うちはここから近いから……雨宿りしてけ」
雨は一気に強さを増し、冷たく強い風も吹いてきた。瑞希は折り畳み傘を取り出し、まだ迷っている様子の陽太に差し掛け、歩き出した。
何気なく線を引くたび、彼の下卑た笑いを思い出してしまう。そして、誰からも見捨てられて孤独で、他者とつながりたいがために肉体を差し出しさえする、醜い自分の本性がそこに滲んでいる気がして怖かった。
そんな状態が続き、仕事がいそがしかったのもあって瑞希は海から遠ざかっていた。
どれだけ自分が「単調な日々」を送っているとしても、季節は確実に変化していく。
ある日、汗ばむほどの晴天が続いていたのに油断してひどい夕立に降られてしまった。服も荷物もずぶ濡れになったが、幸い厚手のバッグを使っていたので中身は少し湿った程度で済んだ。
中の財布や手帳を別のバッグに入れ替えていると、底の方から紙片が一枚転がり出た。深い青色のカードだ。なんだったろうかと思いつつ手に取る。
波かウロコのような模様と「海の家:インジゴ」という店名が書かれたカードだった。
そんな事があったからか、仕事を終えて帰る途中、無意識のうちに海へ向かっていた。浜辺へ続く階段を降りた時、ようやくそれに気づいて苦笑した。
――疲れてるな、俺……何やってるんだか。
日が暮れたばかりで、海も空も、空気さえも金色に輝いている浜辺は、空虚で醜い自分がいてはいけない場所のように思えた。
ため息をついて引き返そうとした時、誰かが走ってきて避けるまもなく体ごとぶつかってきた。汗ばんだ強い腕がぎゅっと抱きしめてくる。
「せの・みずきさん!また会えるって、信じてた!!」
ばしばしと背中を叩かれる。躍動する体の熱と叩かれた熱とが体中に広がる。思わず瑞希は呻いたが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「オレ、毎日走ってずっと探してたんです」
「……そう……大変、だったな」
絡んでくる腕をなんとか引きはがしていうと、陽太は照れくさそうに笑った。
「あ……ごめんなさい。オレ、よく言われるんですよね。距離感近すぎとか、暑苦しい、とか、あとはシベハス男、とか」
「シベハス男?」
思わず吹き出しながら聞き返す。陽太は汗塗れでもつれた髪を雑に撫でつけながら答えた。
「シベリアンハスキーって犬、見た目はシュッとしてるけど性格は「暑苦しい」とかで、なんか似てるよね、って友達に言われて。あ、あと走るの好きだからかな」
話しながら、陽太は階段に腰を下ろした。つられて瑞希も隣に座った。走ってきたばかり手まだ火照っている陽太の体温を近くで感じていると、体内の虚ろな部分が満たされていくような感じがした。
「瑞希さん、忙しかったんですか?……なんか疲れてるみたい」
現状を見透かしたような問いに瑞希は一瞬どきりとしたが、それをさとられないように何気ない風に答えた。
「まあね。今の時期は……仕事がちょっと忙しいから」
「そうなんだ。仕事、なんの仕事なんですか?やっぱり絵を描く仕事?」
「缶詰工場。港のそばにあるだろ」
陽太は一瞬場所を思い出そうと考え込み、それからぱっと顔を輝かせ、
「ああ、あの工場!小学生の時に社会科見学で行ったことがあります!そっか、だから魚の匂いがしたんだ」
ふと、自分を抱きしめて魚臭い、と吐き捨てた、猪谷のことが蘇る。再び瑞希は居た堪れない気持ちになったが、それを押し殺して聞いた。
「そんなに俺、臭いか?」
「そこまでもないけど……さっきこう、ぎゅっとしたとき……」
陽太は少し恥ずかしげに俯いた。幼さの残る、日焼けした丸い頬にほんのり血の気がのぼっている。
「あの……「にんぎょひめ」って童話がありますよね。子どものころ、人魚は半分魚だから、にんぎょひめはきっと魚の匂いがするんだろうな……って思ってて」
ついさっきまでの快活な口調とは違う、囁くような声で陽太は言った。声変わりをようやく終えた、といった感じの柔らかくひずんだ声が心地よく耳に響く。
「瑞希さんの匂いを嗅いで、なんかそれを思い出したんです……もしかしたら、そのうち泡になって消えてしまうのかな、とか」
傍らの体温と息づかいを感じながら、瑞希は陽太が探るように言葉を紡いでいるのをいじらしく思った。そして、風に吹かれてふわふわと額を漂う癖毛や、そっと摘んだように少しだけ上向きな鼻、微かに震えている、大きくて柔らかそうな唇に触れてみたくなった。
「消えないよ。俺は人間だから」
うつむき加減のまま、陽太はふふふ、と笑いを零した。かすかに緑がかった淡い茶色の目が上目遣いにじっとこちらを見つめる。
初めて会ったときも、この無垢な淡い色の目に見つめられて胸の底がざわつくような感覚を覚えた。再びそれが、初めよりも大きな波濤のように押し寄せてくる。
――いや、だめだ。こいつは俺の事は何も知らない……
焦がれそうな自分の心を殺して瑞希は顔を背け、足元の翳りに目を落とした。陽太に初めて会った日、その眩しさに惹かれながら、数時間後には猪谷の手に身を委ねていた。自分のその「影」を陽太は想像することもできないだろう。
と、同時に勢いよく、温かな重たい体が肩へもたれかかってくる。突然のことで瑞希はよろけ、なんとか手をついて支えた。
「なんだよ、いきなり」
陽太は瑞希の肩へ頰を擦り付けて無邪気に笑った。
「ずっと人間でいて、近くに居て欲しいです。瑞希さん」
存在を確かめようとするように、陽太の大きな手が背中を撫で、肩を抱きしめる。
「さっきから変な事ばっかり言ってすいません。こんな話、誰かにしたことなかったけど……あなたになら話せる気がして」
陽太はもたれた肩からうなじへかけて顔を埋め、満足気に息を吐いた。柔らかい吐息がくすぐったくて、瑞希はますます俯き身をこわばらせた。こんな風に寄り添われたら、意に反して密かに高鳴っている鼓動も、何もかも聞かれてしまいそうだ。
「暑苦しい。離れろよ」
「あ……すいません!!で、今日も絵を描きにきたんですよね?」
もたれかかった時と同じ勢いで陽太は身を離して聞いた。瑞希は俯いたままそっけなく答えた。
「今日は、描かない」
描けない、とは言いたくなかった。
陽太が一瞬顔を曇らせ何か言おうとした時、大粒の雨がぽたり、と足元の砂へ落ちた。ちょうどよかった、と思いつつ瑞希は立ち上がった。
「ほら、おまえも帰らないとだろ」
「はぁ……でもオレ、何も持ってきて無くて」
「え?」
「雨なんか降らないと思ってたし……スマホは忘れてきちゃったし」
途方にくれたような顔で陽太も立ち上がった。音を立てて雨だれが砂へ丸い模様を刻み、遠く雷さえ聞こえ始める。
「雷がこっちに来る前に帰れれば平気かな?じゃあ」
走り始めようとした陽太の腕を瑞希はぐいとつかんだ。
「平気じゃない、危ないだろ?こんな何にもないところで雷が落ちたらどうする」
「え、でも……」
不意に腕をつかまれて強い口調で言われ、陽太はひどく戸惑っている様子だった。瑞希は思わず取った自分の行動に少し後悔したが、取ってしまった以上は仕方ないと思った。
「うちはここから近いから……雨宿りしてけ」
雨は一気に強さを増し、冷たく強い風も吹いてきた。瑞希は折り畳み傘を取り出し、まだ迷っている様子の陽太に差し掛け、歩き出した。